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「頼る」「取り入る」「軽んじる」の関係性

老いた私の母は人を正しく「頼る」ことが出来ません。

これは、ひとえに母が人を信じることが出来ないという事が根底にある、と思っています。

信じる事が出来るとき、人と人の間には、「信用」や「信頼」が生まれます。

仕事上の付き合いか、たまに会う友人か、なんとなく心が通じる感覚を覚える友人か、大親友か、

対象によって「信用」「信頼」は、種類や深さが変わる様に思いますが、

そこには、「信じる」という事が必須なのだと思います。

母の中には「信じる」という感覚がありません。

母は過酷な幼少期を生きたのですが、その世界には「信じる」ということが存在しなかったのかも知れないと私は思っています。

母は誰よりも苦労している、誰よりも辛い目にあっている、誰よりも働いていると、ラッパを高らかに吹くように主張します。

しかし、母は自分はラッパを吹く以外の事をしません。

苦労は他人に投げ、辛い目にあっている体で、誰よりも働いているフリをします。

だから、自分がやらなくてはならない事を全て人からやってもらうのですから、本来は人並み以上に人を頼る場面はあるのですが、

自分より強い人には「取り入り」、
自分より弱い人は「支配」します。

強い人には、媚びを売り、
弱い人の事は、軽んじるのです。

母の人間関係には、常に「嘘」があり、それはジメついた関係性に思えます。

嘘をついたことが無い人はいない筈です。
現実世界を生きる時、嘘もジャッジする事も必要だと考えます。

身近な現実世界に神や天使を見つけることが出来ない理由です。

例えば、営業の仕事で、
「弊社の商品はA社やB社よりも大きく劣っております。」
と言う人はいないでしょう。

A社B社に商品として遅れをとっていても、

「この部分は優れている。」とか

「この部分は実質的には同等の性能が有り、カタログ数値では表せないユーザーの使い勝手に至っては弊社にアドバンテージがございます。」とか

言い方としては、自社を押す話しをする必要が当然有る訳です。

そこには嘘ではなくとも、駆け引きもあれば戦略もあります。

また親しい人が傷つくことを回避する優しい嘘もあります。

そして、子供じみた虚栄心を満たす為につかなくていい嘘を思わず口走ってしまう事だって、覚えの有る人は多いのではないかと思います。

私も沢山の嘘をつきながら生きて来ましたが、段々と嘘をついた「うしろめたさ」と嘘をつく事によってもたらされるメリットを比較して見ると、
「うしろめたさ」が圧倒的に大きい事に気が付き、
どうしてもつかなくてはならない場合の嘘だけに留める事が賢明だと思いました。

生きる中で、聖人君子で無くても、その辺りに落ち着く人が殆どだと思います。


ところが、幼い頃から、疑いと危険の中に身を置くと、言い逃れたり、兄弟達になすりつけたりする事が、身を守る術であると確信し、

大人になっても、その生き方を続ける場合があるのです。

母はそうやって生きました。

母の人間関係は余りにも作り事が多すぎて、側に居るとどうしても、嘘の片棒を担がされる場面に遭遇します。

口裏を合わせる事を強要されたり、
知っていて知らないフリをする様に言われたり、

子供の頃はあまりにも事実と違う、嘘のフォーメーションが多すぎて、私が上手く口裏を合わせられずボロが出ると、母は巧みに
「この子が嘘をついた」
「この子が悪い」
と、私一人を悪者にするのが常でした。

そして、
「お前は子供だから何をしても恥ずかしくないが、母さんは大人だから恥をかく訳にはいかない、お前は「母さんの言ってる事は嘘だ」なんて言ったらダメだよ、そんな事を言ったらただじゃおかないよ。」

なんとも無茶苦茶な理屈ですが、私は相手方にバレない様に、ボロが出ない様に必死で言いつけを守りました。

今思えば、幼い頃の私は、「うしろめたさ」で一杯いっぱいの子供だったんだな、と思います。


私は幾つか自分の中に対人関係における要注意の基準があるのですが、

嘘で現実を捻じ曲げようとする人は要注意だと思っています。

母から教わった事は、ほぼ全て反面教師ではありますが、これもその一つです。

現実を捻じ曲げる人は、総じて強い人に媚び、弱い人を軽んじます。

つまり、心にもない言葉を並べて欺くことも、人を道具として使うことにも、

抵抗が無い様に思います。

母は人に頼ることが出来ません。
本人は全くその事には、気がついていないのですが、

その原因は人を信じる事が出来ないからです。

おそらく、人が怖いのだと思っています。

だから、強い者には媚びへつらって取り入り、

弱い者には、存在を軽んじ支配します。


一昨年母が倒れ、24時間介護が必要になり、私は長く離れていた郷里に居を移しました。

母は身体の自由がきかない為、母の友人知人のもとに私を「派遣」し、私が母の代わりに母が取り入った人、母が軽んじ支配した人達を繋ぎ止める事を望みました。

母の話しを聞いてみると、この人にはこう言って、でもその人にはこう言って…と相変わらず、事実を捻じ曲げた世界を作ろうとします。

その世界は、幼い日と変わらず、私の犠牲の上に構築されます。

私が「うしろめたさ」を蓄え、私が犠牲になる事を前提に、母は喜々として話しますが、

勿論、私は拒否しました。

そして、母に届くことは無いだろうと知りながら、「一度だけ」と思い、

母が構築した人間関係がおかしいこと、
人を欺いたり、支配してはならないこと、
私は母の犠牲にも、道具にもならないこと、

そして、身体の自由がきかなくて辛いだろうけれども、せっかく時間はあるのだから、一度自分を省みてもいいのではないか、と話してみました。

しかし、母は本当にこういった話しは理解の外なのです。

自分は愛情深い母だと思ってます。
家庭は暖かい家庭だったと言います。

理解しないのはわかってましたが、聞く母がポカンとするのを見て、心底母には届かない事を私が理解しました。

「一度だけ」と思って話しましたので、もう母にこの様な話しをする事はありません。

母が選んだ母の人生ですが、私の中では、

母は間に合わなかった、

タイムアップだなぁ、

と言う思いが正直、拭えないのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム





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