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平等を求めたら、幸せは掌から零れ落ちる

「それは平等じゃない」
「公平ではないな」

よく聞く言葉です。

そして、平等や公平が、この世の真理、自然の理(ことわり)だと信じる人は、とても多い、と感じています。

しかし、この平等、公平を、基準に世の中を見渡せば、世の中は不平不満に満ちた場所になります。

平等、公平は、脳ミソが大きくなり過ぎた人間が、万物創生のずっと後に、創り出したものであり、

自然界には、平等、公平はありません。

たとえば、鳥や魚が、沢山の卵を産んでも、孵化する前に天敵の餌食になる生命もあれば、

孵化しても、生き延びる生命はほんの一握りで、大半は次の生命に繋ぐこと無く、短い生涯を閉じる運命です。

そもそも、沢山の卵を産む生き物は、生き延びる確立が低いからこそ、沢山の卵を産み落とす訳で、

最初から、大半が捕食されることは、織り込み済みの生命、と言えます。

たまたま、天敵に出会えば、あっという間に、食べられてしまいますし、
たまたま、天敵に見つからなかったなら、
ウミガメなどの長寿の種であれば、百年生きる個体も在るのです。

そこに平等や公平といった概念は存在しません。

それが、潔くもあり、厳しくもある自然界の理、だと考えます。

その生の営みは、人間ではとても及ばない神に近い場所での出来事の様に思えます。


万物を創り給うた創造主の誤算なのではないか、と思う程に、思考、が発達した人間という生き物は、自然の理からは最も遠い生き物になりました。


私は日本で生まれ育ちましたから、諸外国の事は分かりませんし、
昭和生まれなので、今の教育現場を知りません。

だから、私が身を置いて、触れて、感じた範疇のお話しですが、

私の体験した義務教育の9年間には、平等、公平を徹底して擦り込まれた感覚を持っています。

全体ありきの個人、
全体の中の個、である、
という意識を叩き込まれた様に思います。

それは、コントロールし易い没個性の人材をつくる為の仕組みだった様にさえ感じられます。

そうやって、平等、公平、みんな一緒に、と教え込まれて、

義務教育が終われば、受験戦争、
社会に出てみれば、資本主義の社会です。

平等でも、公平でも、みんな一緒に、でも無い仕組みに、今度は組み込まれます。

自然の理から遠く離れ、感じることをなおざりにして、思考を拡大させた人間が創り出す仕組みは、矛盾だらけであることは、仕方が無い、とは思っています。

そんな矛盾を内包した仕組みの中で生きるには、

仕組みを憂うことでも、
平等じゃない、公平じゃない、と声高に叫ぶことでも無く、

自分の中に基準を持ち、
他者と比べるのでは無く、
自分の中に満足を見出す生き方こそが、豊かに生きる術ではないか、と思っています。

平等、公平を強く意識した時点で、基準は他者にあります。

他者との比較を抜きには、公平も平等も無いからです。

公平、平等に執らわれた瞬間に、自分に対する評価は、相手ありきの相対評価になります。

相手次第で、或いは周囲と比較して、同じぐらいなら平等、な訳です。

そんな貴方任せの自己評価で世の中を眺めたら、不平不満にまみれてしまいます。

私は、幸せ、とか、豊か、といったことを考えるときに、不平不満が心に無い状態は、幸せだと感じますし、豊かだと思っています。

幸せであり、豊かだ、と感じられる人生を歩むには、

他人任せの相対評価、では無く、
自分の中の基準による絶対評価でなくてはならない、と思っています。

義務教育で教わることと、実社会の仕組みには矛盾がありますし、

かつて無い変革の時を迎えたであろう世の中は、これまでの仕組みに綻びが見え、

どの様に変貌するかは、学者にも、有識者にも、誰にも分からない世の中だからこそ、

自分の中に揺るぎない基準を持って、あくまでも絶対評価で、

豊かに生きたい、

そう思うのです。

読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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