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親は本当に「仕方なかった」のか

両親は揃って重大な「無価値感」を心の中に持っている人達でした。

母本人は意識してやっている訳では無いのでしょうが、人と人との間に立って、人間関係を目茶苦茶にしてしまう人です。

今風に言うとフレネミーとかカバートアグレッション等と言われる特質をことごとく持っています。

父も母も私に虐待をしましたが、今思うと父は多分に母に扇動され、操られていた様に思います。

何が目的だったのかは記憶にありませんが、父が会社から帰ると、母が父を「凄い」とか「アナタが居なかったらあの会社は回らない」とか、褒めちぎりました。

父は上機嫌で風呂場に消え、父が湯を浴びる音がし始めると、

母は私に、
「男なんて褒めれば直ぐにご機嫌になる。馬鹿みたいだと思わないか?」
と言い、楽しそうに笑いました。

私が小学生になったか、ならぬかの頃です。

私は両親に何があったのかは知りません。

ただ、私は嫌な気分だったのと、陰で「馬鹿」と言われる父を気の毒に思いました。

父も過酷な人生を過ごし、心は遠い昔に凍りつき、多分に幼児性を残した人だったのだと今は理解しています。

母の社交術は、強い者には取り入り、弱い者は支配し、人と人とを言葉巧みに競わせ、自分だけは味方、良い人という立ち位置に立つ、というものです。

母は産めや増やせや、の昭和前期に七人兄弟姉妹の真ん中、四番目に生まれているのですが、

兄弟姉妹達の中でも母は、競わせ、争わせ自分が中心の世界を作ってました。

ご近所付き合いも、そうでした。

母はあろうことか、父と私にも、独特の社交術を適用させていました。

父には私の事を告げ口し、私には私が父に悪い印象を持つ様な事を言うのです。

幼児性を色濃く残した父は、母のご注進を真に受け、随分私に辛く当たりました。

子供に対する愛情は成熟した心にこそ芽生えるもので、幼児性を残した父には荷が重い話しである上に、母のご注進によって、父は私を憎んでいました。

母が85歳を越えた今でも老いたとはいえ、存命で、いまだに都合の悪い事は亡き父のせいにしますし、

「お父さんは酷い人だったね、人の親になる様な人ではなかった。」などと平気で言いますから、わかり易いのです。

操られたから、と言って父の事を私は「仕方がなかった。」などとは思っていません。

幼少期4歳未満は親からひたすら愛され、肯定され、守られることで、自分には価値がある、という感覚を育む時期です。

生涯で唯一、親からの無償の愛を享受する季節なのです。

その時期の子供に、何があろうとも100%非は無いのです。

両親の幼少期が過酷だったから、と言って虐待が仕方がない訳が無いのです。


機能不全家庭に生まれ、生きづらさを抱えてしまった者が、その生きづらさを手放したいと願うならば、

自分と向き合い、心の傷の原因と対峙しなくてはなりません。

その生きづらさを手放す道程で、陥りがちなのが、
「親には親の事情があって、仕方が無かった。」
という「落し所」です。

生きづらさは、かつて自分の感情を捨てて親の望む子供にならなくてはいけなかったことが原因です。

その生きづらさに気がついて、手放そうと決意したのです。

幼い日に虐げられて、捨てざるを得なかった感情を拾い上げて味わい尽くす事無しには、生きづらさを手放すことは叶いません。

生きづらさに気がついて、手放す決意をした事は、尊い一歩です。

それなのに、今ここでまた、

「親は仕方が無かった」

という落し所に落ち着く事は、

幼い日に捨てた自分の本当の感情を、

再び捨ててしまう事です。


今、「親は仕方が無かった」と物わかりの良い人になる事で、

親は痛まないで済みます。

自分も優しい人でいられます。

親も自分も痛まない落し所に落ち着く時、
鋭い痛みに刺し貫かれるのは、
誰でしょうか?

それは、幼い日の自分です。

生きづらさを手放す為に自分と向き合い始めました。

尊い一歩を踏み出しました。

それなのに、親も子も痛まない落し所に落ち着いたら、幼い日に捨てた感情を、今また捨てる事になるのです。

幼い日の、悔しくて、辛くて、怒りたい、泣きたい、思いをまた見殺しにする事になります。

その再体験に幼い日の自分は、刺し貫かれ、傷つき、痛みます。


生きづらさを手放したあとに、
「親は仕方が無かった」
と思える本当に優しい自分になるかも知れません。

しかし、それは自分の生きづらさを解放した結果、自然にそうなったのであって、

解放する前に落し所を探して、幼い日の自分を見捨ててはならないのです。

親も子も痛まない時、

幼い日の自分が

痛みに刺し貫かれている事を

知って頂きたいのです。


生きづらさを手放す尊い決意をしながら、

自分と向き合おうとしながら、

向き合う前に優しい人になろう、

とする人の何と多いことか。

この落し所にしがみつく人の何と多いことか。


今一度、言わせて下さい。

親が仕方が無かった事になり、

子は親を許すとき、

親も子も痛まず、

痛みに刺し貫かれるのは、

幼い日の自分なのです。


生きづらさの原因は、決して見たくない、心の傷です。

しかし、尊い一歩を踏み出したのならば、

どうか目を逸らさず、

見据えて欲しく思います。


必ずや、光に届くと信じます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム







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