見出し画像

32歳、これまでの職歴が多すぎる話(前編)

前回の自己紹介では属性しか紹介していない私ですが、今回は32歳にしてはたぶん多すぎる職歴と、それらが現在のフリーライターとしての仕事にどう生きているのか(はたまた生きていないのか、)書いていこうと思います。

わたしが経験した業種はざっくりこのような感じ。19歳以前のバイトの話をすればもっといろいろありますが今回は19歳からの社会人としてのお話です。

  • 飲食店の接客スタッフ

  • ホテルや結婚式場のバンケットやイベントスタッフ

  • デパ地下の惣菜販売

  • 新聞社や通信社の編集アシスタント

  • HP制作会社のライター兼デザイナー兼雑用…?

  • 旅行の派遣添乗員

  • ECサイトのデザイナー

  • 地元紙記者、ライター関係

ちなみに、正社員経験はHP制作会社の1社のみで、あとは全て、フルタイムですがアルバイトや派遣雇用です。人生でボーナスなんてもらったことありません。憧れ。

世間様から見たらいわゆるフリーターかもしれませんが、なんとなく「フリーター」っていうちゃらんぽらんっぽい響きが嫌いなのでそうは言いません。
もともと生涯同じ会社にいるのは無理だと思っていたし、その時やりたい仕事をするための手段がアルバイトやら派遣だったので結果的にそうなったというところで、派遣で得したこともあればもちろんその逆もあります。

19-20歳:飲食業ほか2、3足のわらじ時代

19歳。わけあって大学入学を親に取り消され、家出娘だった私は、身分証の類を取り上げられているうえに未成年だったため、希望の職に就くどころではありませんでした。

大学生として週末働く予定で、とある派遣会社に登録していたので、当時まだ小さい会社だったそこの社長と事務の女性が気にかけてくれ、なんとか仕事にありつけたのでした。

失敗だらけの社会人生活のはじまり

社会人生活1年目は銀座の有名な飲食店で肉体的にも精神的にもハードな日々で、甘ちゃんだった私はいろいろとやらかしましたが、なんだかんだと大目に見ていただき…。当時の先輩方には頭が上がりません。自分でも恥ずかしい失敗を本当にたくさん、数えきれないほどしました。

文字通り無一文で家出した(せざるを得なかった)ため、当時は必死に働き、お世話になった派遣会社から声がかかれば、メインの仕事の休日返上で働いていました。月の休みが1日、2日だったこともザラです。

まだ育ちざかりだったのか、16~17時間勤務の翌日など、起きられず遅刻してしまうことも多々ありました…。

散々迷惑をかけまくりましたが、社会人の基礎を育ててくれたのはこの職場です。有名なシェフや、現在はホテルの支配人をしている方との出会いなど、貴重な経験をさせてもらいました。

20‐24歳:報道機関でほんの少し夢に近づいた時代

1年ほど働いて生活の基盤らしきものができ、未成年でもなくなったので、ずっと憧れていた報道機関でアルバイト募集しているのを見つけ、転職しました。

楽しかった通信社勤務

最初に働いた通信社は時給1000円。東京の一人暮らしにはきついお給料だったので、勤務後にデパ地下の惣菜店で働いたり、週末は前職の派遣会社からもらう仕事でホテルや結婚式場で働いていました。

金曜の勤務後に夜行バスで出発して地方に行き、土曜は1泊して、月曜の朝夜行バスで東京駅に帰りついて、そのまま出勤するスタイルはこの時期に確立しました。

仕事ではアドビのデザインソフトなどを覚えさせてもらったので、その後のWebデザイナー時代や、現在もライターとして写真を編集するときなどに役立っています。一見ややこしそうなソフトに抵抗がなくなったのも、この職場のおかげです。

職場の仲間には恵まれ、とにかく楽しい時代でしたが、慣れすぎて自分に緊張感がなくなってしまったのと、条件のいい仕事が見つかったことで転職することに。

最もワークライフバランスのとれた新聞社時代

次の職場は新聞社で、編集者のアシスタント業務でした。同年代の先輩も多く、派遣勤務で時給も良く、掛け持ちしていた仕事をする必要もなくなりました。

朝刊に合わせた勤務のため、出勤は昼過ぎ、終業は22時半以降という勤務体制でしたが、寝坊の心配がなくなって安堵したのを覚えています(通信社は朝早かったので)。

新聞端末の操作は多少ややこしかったものの、元来新しいことはすぐ覚えられるタイプなので、あまり苦労せず職場になじみました。シフトもかなり自由がきいたので、23連勤の7連休というような極端な勤務を希望して旅に明け暮れていました。

誤字脱字に気づいたり、見出しと本文の差異などを読み込んだりする能力はこの時期に培いました(と言いつつ誤字脱字あったら恥ずかしい…)。当時は原稿を書いていたわけではないのですが、あらゆる原稿に触れたせいか、今でもWeb記事のように4000文字以上などと指定されるより、300文字などの限られた字数の中に必要な言葉をはめ込むほうが得意です。

24-25歳:大阪に移住/Web関連の極小ブラック企業で病みかけた時代

当時の彼氏が大阪に引っ越すという浅はかな理由で、24年住んだ関東に別れを告げ、大阪に引っ越しました。

大阪で就活に大苦戦

当時は関西だったら京都も奈良も神戸にも、行ったことない場所がたくさんある!と、ただワクワクした気持ちで、仕事のことなど全く心配していませんでした。

ところが、なんのあてもなく大阪に移住してから就活に大苦戦。事前に調べていた時には、給料2割減くらいは覚悟していましたが、そもそも私が希望していたライターや報道関係、出版関係の仕事はほとんど関東に集中していました。

極小ブラック企業で働いた日々

結局、引っ越して3カ月たちあとがなくなり、HP制作をしていた会社に正社員として就職。ライターとして入社しましたが、社長・部長・私の3人しかいない会社だったため、デザインやら雑務、時には面接までこなす日々。

任せてもらう範囲は多くやりがいはあったものの、裁量はないのに裁量労働制で残業代はつかないという典型的ブラック会社。安月給なのに副業禁止だったので、この給料では生きていけないと何度か直談判しましたが、社長は毎度「給料は上げる」というのに、数十円しか上がらず暖簾に腕押し状態でした。

隣にいるのにメールで送ったことを30分後に知らせてきて、見ていないことを怒られる職場環境に嫌気がさし、1年で退職しました。ライターよりデザイナーとしての仕事が増え、社内で過ごす時間が長くなったことも原因です(しかも嫌味な部長と2人っきりだったので)。

いま思えば、万年社員を募集している会社で、ちらほらと入社もあったのに早い人では1日、長くても2か月で辞めてしまったので、私は頑張りすぎたと思っています。

でもこの職場では、HP制作の打ち合わせや経営者インタビューなどを経験させてもらい、経営者の目線やどんな場所でも物怖じしない精神力を培ってもらったと思っています(内心ではめっちゃビビるし緊張もするけど)。

実は頼み込んで、タイに出張にも行かせてもらいました(最初、自腹でも行くとお願いしたけれど結局出してくれました)。スラム街の子どもたちの生活環境を間近で見るという、なかなかできない経験ができたことにはとても感謝しています。

次回、添乗員からフリーライターになるまで

なんだかんだと長くなったので、今回はここまでにしておきます。次回、後編では添乗員になり、結婚、出産を経てフリーライターとして独立するまでを書きます。

文字だけなのにここまで読んでいただき、ありがとうございます。次回も、引き続き読んでいただけたら嬉しいです!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?