『Call Me by Your Name』からアプリコットの語源を考える
映画『Call Me By Your Name(君の名前で僕を呼んで)』の序盤にこんなシーンがある。
主人公エミオの母親がアプリコットジュースを持ってきた時、考古学の教授である彼の父親がふと、アプリコットという単語の語源について話し始めるのだ。
It's like the words "algebra," "alchemy," "alcohol." It derives from an Arabic noun combined with the Arabic article "al" before it. The origin of our Italian albicocca is al-barquq.
教授が言うように、語頭に「al」がつく単語はアラビア語の定冠詞「ال(al)」のなごりであることが多い。教授はイタリア語でアプリコットを意味する「albicocca」がアラビア語の「البرقوق」(アル・バルクーク)から来ていると結論づける。
-----------------------------------------------------------------------------
蛇足だが教授の次のセリフもなかなか興味深い。
It's amazing that today in Israel and many Arab countries, the fruit's referred to by a totally different name, Mismish.
実はアプリコットを示すいまのアラビア語の単語は、「البرقوق」(アル・バルクーク)ではなく、「المشمش」(アル・ミシュミシュ)という別の単語だというのだ。それぞれの単語をGoogle画像検索にかけてみよう。こちらが「البرقوق」(アル・バルクーク)
たしかに淡い黄赤色のアプリコットではなく、赤紫色のプラムやプルーンがヒットする。そして次が「المشمش」(アル・ミシュミシュ)
こちらはアプリコットそのものである。またセリフの中で教授がアラビア語圏だけでなくイスラエルにも言及したのは、ヘブライ語でも同じく「משמש」(ミシュミシュ)という単語がアプリコットを意味するからだろう。(あとは彼の一家と助手がユダヤ教徒という設定だからか。原作者のアンドレ・アシマン氏がエジプト生まれのユダヤ教徒だからかもしれない。)
-----------------------------------------------------------------------------
さて蛇足はここまでにして、アプリコットの語源はアラビア語とする教授の説に対し、のちにエミオと恋仲になる大学院生のオリヴァーが反論する。
You're right in the case that most Latin words do find their origins in Greek words. However, in the case of "apricot," it's a little bit more of a complicated journey.
歴史を見てみれば、紀元前に古代ギリシアはローマに征服されその属州となった。ローマが帝国として版図を広げるのに伴いラテン語も広まったとすれば、元々ギリシア語だった言葉がラテン語に借用される例が多いのはなんとなく予想がつくだろう。
The Greek actually takes over from the Latin. Latin word being, praecoquum or precoquere. So it's, "Precook" or, "Pre-ripen," as you know. To be precocious or premature.
だがその後の時代では、ラテン語からギリシア語という反対方向の流入もあるようだ。ローマ帝国の東西分裂後ビザンツ帝国では、ラテン語に代わってギリシア語が公用語になったという背景がある。オリヴァーによれば、アプリコットは元のラテン語がビザンツ帝国時代にギリシア語に借用されたという。
And the Byzantines, to go on, the borrowed praecox, which became prekokkia, which then became berikokki, which is how the Arabs got al-barquq.
そしてビザンツ帝国の中期(7世紀〜)はちょうど、イスラームが誕生し、正統カリフ時代・ウマイヤ朝時代を経てアッバース朝(750年〜)が栄えた時期でもある。
アッバース朝のバグダードといえば「知恵の館」を擁する中世イスラーム世界の学問の中心だった。そして「知恵の館」ではギリシア語の学術文献をアラビア語に大量に翻訳する作業が行われていた。その担い手はシリアのキリスト教徒であり、アリストテレスなどのギリシア語文献をシリア語に翻訳したものをアラビア語に翻訳していたそうだ。
オリヴァーの言うように、この時期にギリシア語の「berikokki」がアラビア語に借用され「البرقوق」(アル・バルクーク)になっていたとしても不思議ではない。
オリヴァーはこのドヤ顔である。そしてここまで聞いていた教授は、「お見事!」という表情で彼を自分の助手としての合格を認める。
映画のレビューなどでは、このシーンは教授がわざと間違った説で大学院生を試し、正しく反論できれば助手にするというテストをしていると解釈されることが多い。
しかし、ここで少し疑問がある。果たして教授の方の説は「間違って」いたか?会話の構造的には教授の説にオリヴァーが「反論」する形になっているが、果たして2人の説は対立しているのか?
ためしにアプリコットの語源を歴史的に古い方から並べてみよう。
▽▼▽▼▽▼▽
【Late Latin】アプリコットの果物が夏によく日光が当たって早く熟することから、「早期、早熟」を意味するpraecoxや「早く調理する」を意味するpraecoquusがついて
praecocia:早く熟するモモ(モモはpersica)または praecoquum:早く熟するリンゴ(リンゴはmālum)などがアプリコットという果実やその木を示す単語の原型となる。
↓
【Ancient Greek】πραικόκιον (praikókion)
【Late Greek】πρεκοκκια (prekokkia)
【Byzantine Greek】βερικοκκίᾱ (berikokkíā)
ラテン語の「c」はk(カ行)の音のため、ギリシア語では「k」に置きかわっている。
↓
【Classical Syriac】ܒܪܩܘܩܐ (barqūqā), ܒܪܩܘܩܝܐ (barqūqāyā)
【Arabic】 البرقوق (al-burquk)(アル・バルクーク)
「p」の音を表す文字がないので「b」の音で代用されている。
↓
【Spanish】albaricoque
【Standard Catalan】albercoc【Dialectal Catalan】 abrecoc, abercoc
【Italian】albicocca
【French】abricot
アラビア語の定冠詞「al」が残って「al」や「a」がくっついたままになっている。
↓
【Obsolete English】 abrecox, abrecock, apricock
こうしてなぜか「b」が「p」に戻って【English】apricot にやっとたどり着くわけである。ちなみに今私の目の前にあるオランダのアプリコットジャムの瓶には「abrikoos」と書いてある。
△▲△▲△▲△
このように並べてみれば、アプリコットの語源はラテン語→ギリシア語→アラビア語→ヨーロッパ諸語という流れになりそうだ。
したがって、ラテン語→ギリシア語→アラビア語だと言ったオリヴァーの説も、アラビア語→イタリア語だと言った教授の説も、お互いに矛盾していないので両立するはずなのである。
ならばなぜ教授の説が「間違った」もののように映画の中で扱われているのだろうか?
少し長くなってしまったので、この考察は次の記事に回すことにしよう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?