Nakuriyu
誰かの頭の中に存在したもの
私の頭の中に存在するもの
雑文
アークナイツのイベントシナリオを読んでいた。メインストーリーを数章放置していたので、それを多少駆け足気味に読み進めて。『ニヤニヤ谷へ』も読んだ方が良さそうな雰囲気だったので一通りチェック。今日になってやっと『バベル』を読み終えた。文字を追うスピードが遅いとかではなく、読まなければと思いながら無為に時間を過ごしていたせいである。(おかげでイベントステージを急いでクリアしないといけない。) 端的な感想としては、納得の行く話だった。内容自体はゲームの来歴からして5年そこら寝かせて
二次元に展開される虚構の関係性を見るだけの人になってどれだけ時が経ったか。恋愛漫画とそのメディアミックスに触れ、心をときめかせてきた。ロマンチストの気性故に、王道パターンに沿った関係性も、奇矯で生々しさのある関係性も楽しんできた。ジャンルに囚われず、どんなファンタジー世界からも恋愛のある種の記号を見出したりする。 その一方で、実写恋愛映画は長らく遠い存在だった。華々しさを欠いた役者を眺めるのは退屈で、情欲を掻き立てられない(世間で持て囃される名優も、ホモ・サピエンスである以
頭に植え付けられ今も逃れられずにいる死への恐怖を克明に描くことに関して、私は『少女終末旅行』を越える作品を知らない。『シメジシミュレーション』もまた、自我の境界を異様な迫力で描いている。 既知の記号 少女と少女の出会い。溶け落ちる世界。メディアの自己言及。馴染み深い記号が並ぶ。しかし懐かしいという表現は不正確かもしれない。それらをつくみず氏のようにまとめ上げることをできる人間が同時代に何人いるのだろうか。個人的には既視感よりも、確かな実在性を感じる。かつて独りで見たもの、
『解析入門I』(杉浦、1980)をもう少しで読み終える。 数学自体に結構なブランクがあり、本格的な数学書を通読するのも初めてだったので、新鮮に楽しむことができた。単純に、小説としての面白さがあった。読む側の作業を強いる点で親切とは言い難いが、今年読んだ他の文芸(例えば『苦界浄土』や『燃える平原』)と比肩する面白さだった。考えてみれば、数学書程に伏線と伏線回収を密に詰め込まれた本は滅多に無い。構成は実際、教科書的な都合に支配されているのだろうが、それとは無関係に読者側から
Youtubeの動画を漫然と聞き流しながら生活していて、ふと、マクスウェル方程式とは結局何だったのかと思った。 https://www.youtube.com/watch?v=EH2A8mZmM9M 動画自体は重要ではない(有名Youtuberの誤った学術解説を訂正する、というよくある主題)のだが、聞き覚えのある高校レベルの物理学と、ポインティングベクトルという覚えの無い単語に、何かを刺激された。 そもそも自分は大学の学問で躓いた(と自認はしている)人間だ。初年度の電磁
・前提として、「ともあれソシャゲは滅ぶべき」と思っている。 ・加えて、当初のスタンスは「生徒に性的なアプローチを掛けるカス野郎を成熟した大人として持て囃すようなコンテンツに手を出す程、私は落ちぶれちゃいないが……」であり、根本的な感情は今でも覆らない。 ・ただ4th PV を見ていたらときめく部分があったので、メインストーリーに触れることにした。エデン条約編を筆頭にプロットの評価が高いことは聞いていたので、その側面での期待が生じた。 ・煌びやかなサイバーワールドは普通に
webに放り投げていた文章を自分用に製本した。自分以外の人間が価値を見出すことの無い、一冊だけの本。 かなりの満足感がある。ろくな知識・技術を持っていない人間でも、自身を満足させる程度のものならば案外作れる、便利な時代だ。表紙デザインは多少悩んだが、リテイクは不要な水準だ。中心線が思い切りずれているので、デザインの素養がある人間が見たら吐血しそうだが。 マットPP加工の手触りは、お気に入りの同人誌を思い起こさせる。本棚に並ぶ時のことを考えて、背表紙に文字を入れたのも良かっ
(桜雨の中で私を見つけて) 喫茶店には、桜色の燐光が散っていた。 それは天井を通り過ぎる雨粒のような振る舞い、何処へともなく消えて行く。 「ピアスがどこにも見つからない」 ぽつりと彼女は呟く。それは彼女本人とは無関係の独り言だ。 彼女は俯いているが、視界内には常に過ぎ去る燐光がある。光る雨粒は狂気の源泉で、それを見詰めていると、彼女は自分が自分であることを忘れてしまう。 「あいつは音楽を舐めてる。」「あの領主の声を聞くだけで虫唾が走る。」「近頃はどうにも右目の調子が悪くてね
1シーズンで複数のアニメを平行して見るのは随分と久しぶりな気がする。"豊作"・"不作"という表現は改めて声に出して言うとしっくり来ないが、少なくともかつての私であれば"豊作"と呼んだだろう。 以下、だいたい4話まで放送された時点での与太感想(アクナイは1話まで) ぼっち・ざ・ろっく 今のところ最も楽しんで見ている。Cloverworksの評判を聞きつけて『明日ちゃんのセーラー服』および『着せ替え人形は恋をする』を掻い摘んで見ていたので、作画の安定感は期待通りといったとこ
意識を溶かした状態で特定の漫画を読む時、これ以上の幸福を得られることがあるだろうかと思う。(知覚可能な程度に有意な幸福は全て想像上の存在で、自己のタイムライン上において、過去にも未来にも存在しない。)
他人の夢ほどつまらない話はないというが、その言明にはあまり同意できない。確かに、整えられた創作物に比べれば、取るに足らない、感情を動かすことができない話にしかならないだろうが、それを言えば世の中の大半の出来事がそうだ。大半の出来事はあまりに個人的で、言葉にしても流されてしまう。 多くの人は、他者と共有可能な話を選別する能力を身に着けている。それが世界の語るに値することの大半だと思っているのか、は定かでないが。私の限られた脳では、コミュニケーションに長けた人間の考えることは良
The Lighthouse 同監督のThe Witchが程よい温度感の映画だったので、こちらもと。 端的に言って、思っていた以上に観ていて負荷のかかる映画だった。ジャンプスケアに相当する地雷は無かったものの、前振り付きの大仰な演出は多く、気持ちよく見れるシーンよりも疲れるシーンの方が多かった。この作品に限らず、アンタゴニストの目を盗んで鍵を盗む展開って不要では?と昔から思っている。(映画全般が嫌いなのだと思われるかもしれないが、実際その節はある) 筋立てもまた、中々に鬱
藍獣は浅瀬の向こうにある水平線を物静かに眺めていた。気を高ぶらせ、あたり構わず地肉を貪る常の性格は鳴りを潜め、従順な家畜のように、春伊の右に付き従った。海岸に近づくに連れて勢いを増していた風は、音の半分を薙ぎ払うまでになっていた。藍獣の軋むような呼吸音も、春伊の耳には届かない。一人と一匹は、幾年振りに見る思い出の海を前に、茫然としていた。繋がりによる歓喜は過去のもので、両者は別個の存在として、大地に立っていた。 春伊にとって藍獣は唯一の伴侶だった。それは背の大きく隆起した、
「記憶は戻った?」 「少しも変わらない」 「……」 「目が覚めて、白い壁を見ると、誰かの顔が浮かぶような気がするの。それが誰か知っている人な気がして、でも思い出せない」 「そう。外には出てる?今日も良い天気だよ」 「ううん」 「私と一緒ならどう。林檎の木まで」 「うん。それも良いかな」 何も変わらない。何度ここを訪れても、彼女の在り方は変わらない。 私は頭の中で暦を思い浮かべ、あと何度ここに来られるのだろうと心を泳がせた。 焦燥とは明確に違う、当てのない思索の旅だった。
ボイスメッセージの声色を聞いただけで、友人はもう助からないだろうと思われた。 マンションの上層に向かうエレベーターに乗りながら、私は驚きよりも諦めに近い感情を握りしめる。 「まだあいつについて何も知らないままだった」と心の中で呟く。 彼が高層マンションの一室を住処に選んだ理由だって知らないのだ。人嫌いがそうさせたのだろうか。度々彼の部屋を訪れていた私は、その生活ぶりから、自室に呼び寄せる知人を多くは持っていないのだろうと推測していた。しかしそれも推測だ。その気難しい思考
マギアレコードのアニメ一期を見たのも、今となっては随分前に思える。 元々、まどかマギカのそれなりに熱心なファンであったので、ソーシャルゲームの存在はずっと知っていた。知っていて、ゲームとして信用する材料を持たなかった私は、触れようと思わなかった。ソシャゲというのはそれなりに時間を費やさざるを得ないものだし、システム面は無視できない。そして仮にストーリーを目的にするにしても、ソシャゲという媒体は魅力に欠けていた。私はまどマギをアニメとして好きだったし、それを今更ノベル形式にさ