降雨の中で私を見つめて

(桜雨の中で私を見つけて)

喫茶店には、桜色の燐光が散っていた。
それは天井を通り過ぎる雨粒のような振る舞い、何処へともなく消えて行く。
「ピアスがどこにも見つからない」
ぽつりと彼女は呟く。それは彼女本人とは無関係の独り言だ。
彼女は俯いているが、視界内には常に過ぎ去る燐光がある。光る雨粒は狂気の源泉で、それを見詰めていると、彼女は自分が自分であることを忘れてしまう。
「あいつは音楽を舐めてる。」「あの領主の声を聞くだけで虫唾が走る。」「近頃はどうにも右目の調子が悪くてね。」
全て彼女の精神には無関係だ。雨粒が彼女を狂わせている。
こうなっては仕方ない。雨が降り止むまで放置するのは不本意なので、彼女を家まで送り届けて、しばらく様子を見ることにしよう。
彼女が狂気に落ちている時、私は努めて彼女に言葉を届けようとする。
「コノカ、これからあんたの家に行こう。ケーキは気にしなくて良いから、また今度来よう。」
彼女はうつむいたまま、独り言の威勢を弱める。反応は薄いが、それで十分だ。
「コートを着せるね。携帯は右ポケットの中だから。」
無意識の動作はできるので、身支度に難儀することはない。人目については、今はもう慣れた。
「手をつなごう。歩く気になれなかったら、私に寄りかかって。」
彼女は比較的正気に見える。口数は少なく、虚ろな目で自分の足を運ぶ先を見ている。
「いつもありがとう。」と彼女は言った。日頃の声色からは考えられないほどか細い音でも、私には確かに届いた。

慌ただしい食堂の片隅で、私はガールフレンドのコノカと一緒に過ごしていた。
互いの家に入り浸っている間柄なので、私の時間の都合が付くときは、神学部の食堂で落ち合うことにしていた。
「相変わらず忙しそうだ。これでも卒論の目途は立ってるんでしょ。」
「そうなんよね。そもそものカリキュラムが不自然すぎるのよ。」と彼女はぼやく。「何回も同じ話してるけどね」と付け加えて。
神学部の学生は総じて優秀で、彼女もその典型の一人だ。卒業もまだ先なのに、既に論文の原型はできていて、あと残っている作業といえば校正くらいという余裕ぶりだ。私の方も、彼女につられて早い段階から準備していた。おかげで追い込みに苦労することはないだろうが、それでも課題は山積している。
黙々と食べ慣れた味を処理しながら、そういった問題から目を逸らす。彼女にまだ振っていない話題は無かったかと、漫然と探す。カップルにしては淡泊な間柄かもしれないが、沈黙に耐えられるくらいには長く一緒にいた。
「卒業したらさ、首都圏で仕事探す感じ?」何でもないことのように、彼女は訊いてきた。
ああ、それも目を逸らしたい、不確かな話題だ。私はぼんやりと言葉を返す。後になって思い出せないような返事だ。
「ほら、業界次第では関西方面に移るかもしれないからさ。」
彼女の方も、まだはっきりとしたことは言わないようなので、深入りはしない。嫌な予感はもう十分にある。
寂しくなるな、と私は思って、そんな自分を恥じた。

私は進んで彼女の送迎をしている。そうしないと彼女が致命的な不便を被るから、ということはなく、都合よく私が家族共用の車を使える立場にあるからだ。
停車した車の中で、私はスケジュールと睨み合っている。目を上げると、コンビニから戻る彼女のウェーブがかった黒髪が目に入る。小柄な体躯は、女性としては平均的なものだ。リクルートスーツに身を包んだ彼女はいつもより周囲に埋没しているように見える。私服はゴシック趣味が出ていてもう少し派手だ。
「少し休憩したら行くとしますか」と言葉を放る。
就職セミナーは何時だって気が乗らないものだ。装いも時間も束縛され、参加しても前進が感じられない。
「そうね、少しだけ。やっぱりテンション上がらないよね。付き合わせた感じになっちゃったかな。」
「いらん気回さなくて良いって」そう言いながら私は隣に座る彼女の髪に触れた。
「コノカが傍にいるおかげで、色々後悔しなくて済んだ」
何度も言っている、本心だ。私は卑しい、満足しやすい人間で、気に入った女とドライブに興じるくらいしか趣味らしい趣味が無かった。
大学生としての数年、その趣味に没頭できただけで幸運なことだと思う。
「卒業したらどうしようね」
「うん」私は小さく頷く。もっと踏み込んで話すタイミングを決めかねている。
灰色の街を駆け抜ける間も、彼女はずっと遠くを見ているような気がする。
目的地の会議場では人事院の人間が待っている。

数日前に、集智庁について調べる機会があった。さっさと寝れば良いような時間に気まぐれを起こしたのでなければ、目を背けている話題には踏み込めないものだ。
採用ページを見ると、凡人からすれば目がくらむような厳しい要件が書き連ねてある。しかし、優秀な彼女は確かに要件を満たしているはずだ。何よりも、彼女には両目がある。実態としては、それが求める唯一の要件とさえ思われる。それくらいに希少な体質なのだ。その目を持つ彼女は、神学者にも考古学者にも歴史学者にもなれる。
実際の生活については別を当たる必要があった。個人の手記や、企業レビューサイトを渡り歩く。
私にとって目新しい情報だったのは、幻視者には介助師が割り当てられるということだ。特殊な肉体を健康に保つ為の医療サポート、移動の補助、緊急時の連絡調整、事務手続きの管理。担当医と秘書を足して2で割ったような立ち位置の専門職で、いわば私の上位互換のようなものだ。
しみじみと、私のいない彼女の生活を想像する。きっと彼女はとても大切に扱われるはずだ。文化の基礎を担う貴重な人種の一人として、行政府から目をかけられる。率直にいって、羨ましさはそこまでない。収入の水準は確かに思うところはあるが、それ以上に窮屈だろう。責務の重さも、私のような浮薄な人間には耐え難い。
彼女は規範に耐えうる人だから、多少の窮屈さは許容できるだろう。一方で、責務はどうだろうか。彼女は国に身を捧げる人生を肯定できる人間だっただろうか。
もっと深いところまで話すべきだったと思う。私は薄情な交際相手だった。お互いにそれに満足している間は良かったが、今更になって首を突っ込むのも面倒に思われるだろう。

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彼女の目について話したのは出会った当初の一回きり。
「チャンネルが次々に切り替わるように、視界がジャックされる。全部主観視点って訳じゃなくて、背後霊目線だったりもする。視界がぐらぐらして、その度に心の中身が流れ込んでくる。独り言が全部筒抜けになる感じ。」
「自分でない他人になる何て、想像も付かないや。」
「それはそうでしょうね。そこの部分は、あまり客観視できなかったりするのだけど。」
「でもコノカを見てる限りだと、すぐ切り替わる感じだよね。乗り移れるのはせいぜい2,3秒くらい?」
「意識すれば一人一人の時間は伸ばせる。一人に固定することもできる、目押しの要領でやるからラグはあるけど。」
「目押し?」
「意外と伝わらないものね、スロットの7・7・7が並ぶのを狙うみたいな」
「なるほど」
彼女の目の前に、1000億人の人生が次々に現れる。それを想像すると、一人の人格なんてちっぽけに思えるだろう。
私、あるいは彼女の先祖と重なる可能性に思い至るが、それに気付けるのはきっと天文学的な確率だ。
光雨で出会いたい人間はいるか、偉人か、親族か、それとも別の知らない人か。そんな問いかけを私はした。
それに対して彼女は「いない」と答えた。「今はまだいない」と答えた可能性もあったが、記憶が定かでなかった。
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研究室は校内で気安く休める数少ない場所だ。とはいえ、研究は一段落して、名前通りの役割を期待することはもう少ない。自分にとっての目下の問題は、空虚な就職活動の方にある。
他の学生は実験や単位を理由に出払っていて、研究室は閑散としていた。
気付くと、中央の歓談用テーブルには、私と指導教官の二人だけ。
「ほう、それは珍しい。」コーヒーを置いて、先生はこちらを見遣る。
「准教授という立場でもあまり縁が無いものなんですね。」
「研究室の人間意外の個人の事情に深入りする機会なんて、そう無いものだからね。」
「意外でした」
「言い触らす格好になって、後悔してるのか?」
「自分なりに話す相手は選んでますから。そんなことは。」
「そうかそうか。」
気まぐれに口を開いたが為に迷いがあって、きっとそれは顔にも出ていたことだろう。
「先生の知り合いにも教会に進んだ方はいるのですか。」
「ああ、同期に一人いたな。」懐かしむように、彼女は言う。「確かに遠い存在になったように感じたよ。あそこの秘密主義は異常だ。」
でも、と彼女は続ける。「拘束は厳しいが、会えない訳じゃないさ。あいつは今でも良き友人だ。」
それは微妙に慰めにならない。"交際"と呼べる間柄となってしまってはもう。
「物理的な距離だけじゃなく、心理的な、思想的な距離はどうでしょう」
「君はあそこをカルトだとでも思っているのか?」教官は片眉を吊り上げた。
「まさか。ただ、決断は必要だったはずです。大きな決断は、人を変えてもおかしくないでしょう。」
教官は私の重点を推し量るように黙る。しかし彼女は頭の回転が速い人物なので、沈黙はそう長く続かない。
「肉体に宿る責務は、ずっとあったことだろう。それが決断の時になって表面化するのかもしれない。」
「肉体?」
「スポーツ選手で考えてみれば良い。自分より優れた人間がこの国に十人もいないと確信できれば、思うことだろう。自分はこの能力を無駄にしてはならないと。社会のためか家族のためか知らないが、これを誇示せねばならないと。」
確かに、私のような凡人には想像し難い重みだ。自分にそれだけ希少な性質が備わっているとは、夢にも思わない。

雨音を窓越しに聞きながら触れ合う。彼女の部屋は雑然と物が置かれている。ゴミが散乱していることは無いが、もう少し整頓をしてくれないかと思う。
机の上の就職関連の情報誌は容易に目に入る。それを横目に見ているだけで、彼女が決心を固めつつあることが分かる。
「教会で働くのはどんな感じかって、教授に訊いてみたんだけどさ、随分と話が長くて。いかにも年寄りって感じだった。」
ぎゅうと心が締め付けられるのを感じる。自分の研究室でも、似たような話をしていたことを敢えて言うつもりは無い。
「やっぱり入庁を勧められるのか。」
「そうね。私としては体験談的なことが知りたいだけなんだけどね。大した収穫は無かった。」
「勝手な印象なんだけどさ。方々から教会行きを勧められて大変だろうなって。」
「サツキはずっと反対だものね。」
私は恥ずかしさのあまりに黙り込む。彼女は目を細めて私を見遣る。憐憫よりかは、欲望のこもっている時の目に似ている。
「誰もコノカの進路に口出しする権利は無いって思ってるだけ。」
「そういうことにしといてあげる。周りの人たちの名誉の為に言っておくけれど、別に思想を押し付けることはされてないよ。自分の意見を持つのは自然なことでしょう。進路の話の折に、それを口に出すのだって。」
「意見をくれるものなのか、普通は。」
「親もそう、そこまで踏み込んではこない。そういえばサツキの家の人は放任主義だって言ってたね。」
放任主義、というのがどこまで正確かは分からない。ただ、彼らは重要な局面において沈黙を選びがちだった。
「サツキの家族観、自分は少し興味がある。友達とかとは結構一線引いてるイメージだけど。」
彼女が自分の奥底を覗き込む姿勢を見せることは珍しかった。多分私に気を遣っていたのだと思う。私は自分の拒絶的な性質を表層では正そうとしていたが、無意識面ではボロボロだった。それを見て取って、彼女はこれまで黙って傍にいてくれた。
「淡泊な人たちだよ。何度か言ってるけど。でもそこは大した問題じゃないんだ。ことあるごとに頼ろうって年じゃないんだから。」
「——ただ、思想的には何も受け継いでこなかったな、って思う。友人と話すようなことを話してこなかった。政治の話も、社会を泳ぐ方法論の話も。」
「——だからそれなりの距離感で接することに慣れてた。」
「——困惑してる。自分がこんなに社会を愛せない人間だったなんて。」

ちらちらと降る桜雨が目障りだ。
目の前にいる、眠る彼女を眺める。いつもは、大して思うことなどない。親しい存在をぼんやりと眺める時に、余計な思考はいらない。眠りを妨げない為に、じっと静かに傍にいるだけの時間。
今は距離感が不安定になっているのを感じる。十分に近くにいるのに、一寸先のことを考えると、彼女の安眠を願う気持ちが揺らぐ。
かつてはこんな自分じゃなかった。口数の少ない、でも気の置けない、適度な関係に導いたのは自分だったのに。
今日、彼女は集智庁の職場体験をしてきたらしい。現役の役人との繋がりができたことを、彼女は「文句なしの収穫」と評した。私はそれに顔をしかめたに違いない。彼女が言うのだから、きっと対面した人物だってそれなりの人格者なのだろう。コノカは人を選り好むタイプで、気に入らない人物の悪評は鋭い。つまり、その人も中立的な第三者であって、彼女を操作しようとする独善的な人間ではない訳だ。私は、自分の中に形作られている仮想敵が実在していないことを、理性的に認識する。しかし悟性的な認識は歪んでいる。性的に魅力的な未来の同僚という低劣な想像上存在を、努めて振り払う。
肉体に宿る責務という概念が私の心に引っ掛かっている。何が責務だ、私は秩序を重んじる人間ではない。心に深く潜れど、あるのは欲望だけだ。
彼女の身体を求めるのは私だけであって欲しかったという傲慢。それが国であれ、組織であれ、同僚であれ、教会従事者が彼女を求めるという事実に、私は不快感を覚える。彼女の身体が手に届く場所にあるということは、過去の私が思う以上に重要なことだった。
高ぶった不満も、噛みしめ続けていれば、いずれは落ち着いていく。燐光に包まれた彼女の情景は、鎮静的なイメージを齎す。
彼女のような人は、夢の中でも雨が降ればその中に他人の人生を見出すという。その真偽は知らない。ベッドの上で降雨を経験したのは一度や二度じゃないのに、それを敢えて訊こうとは思わなかったからだ。私は彼女の視力について尋ねることを意識的に抑制してきた。
あくまで、二人の関係性は二人の意志と選択に基づくものだ。偶然性はあってもわずかだ。だから、他の何かを呪う余地は極めて少ない。

彼女を送り届ける途中、車の中。ぽつぽつと桜雨がフロントウィンドウを貫通する。運転の妨げにならないように、遮光機能をオンにする。
助手席に座るコノカにとっては、そんな機能があっても無くても変わらない。雨はそれぐらい強烈に認識されている。目は焦点を見失い、うわごとを発したり、空気を掴み損ねるように口を開閉したりしている。
灰色の街を見て、私は豪雨がしばらく続くことを想像する。ああ、何度も見た景色だと思う。それは幼少期から見慣れた景色とはいえ、コノカと共にいる数年においては、意味のある景色として、その都度に記憶に浅跡を残していた。
私は本来進む予定だった道を逸れる。経路の変更を朧気に認識した彼女は、わずかに首を傾ける。「どうした」と彼女は呟く。
そういえば、桜の立ち並ぶ川があったなと私は思う。駅の最寄りの橋であれば管理は行き届いていて、時期によってはイベントもやっている。
コノカの視線は不安定で、訝しげに私を見遣る時もあれば、窓の外の虚空を見詰めていることもあった。
「ちょっとした寄り道。」私は彼女に語り掛ける。
路傍に止めた束の間で、私は駐車場を見繕い、そこに直行する。
遮光面を通しても燐光は微かに漏れ出ていて、雨勢がまだ衰えていないことが伺われた。
エンジンを切った車から出ると、果たして、桜雨はピークに達していた。私は彼女の手を取り、外に出ようと促す。「少し外を歩こう。」
人通りは少ない。日の傾き始めの中途半端な時間、陰鬱な曇天。2月を通り過ぎて気温は上がり始めているはずなのに、街の色合いは冬を思わせる。彼女の手を連れて歩く時は大抵、車かタクシーに向かって急ぐ時だ。彼女にしてみれば、あてもなく歩いているように見えるだろうか。散歩日和でもないのに何を、と思っているだろうか。

川沿いの散歩道では、華の最盛期に向けてライティングが準備されていた。今日、照らされているのは、殆ど蕾しか揃えていない木々。光は桜雨と干渉し、散らばり、ギラギラと目を苛立たせる。私の目を以てしても思う、こんな日はカーテンを閉め切って最低限の照明の中で過ごすべきだと。
彼女には何が見えているだろうか。私には、彼女に見えていて欲しいものがある。
私が意味ありげに立ち止まって、握っている手の持ち主の方に振り返ると、彼女は私の様子を伺うかのように焦点の合っていない目を向けた。

「しょうがない人」と彼女が言ったのを私は聞き取った。

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