浅海堕乎

藍獣は浅瀬の向こうにある水平線を物静かに眺めていた。気を高ぶらせ、あたり構わず地肉を貪る常の性格は鳴りを潜め、従順な家畜のように、春伊の右に付き従った。海岸に近づくに連れて勢いを増していた風は、音の半分を薙ぎ払うまでになっていた。藍獣の軋むような呼吸音も、春伊の耳には届かない。一人と一匹は、幾年振りに見る思い出の海を前に、茫然としていた。繋がりによる歓喜は過去のもので、両者は別個の存在として、大地に立っていた。

春伊にとって藍獣は唯一の伴侶だった。それは背の大きく隆起した、五足動物だった。立ち止まっている時の高さは、春伊の胸に届く程。土気色の薄い皮膚の裏には、一本が前腕程の大きさになる骨と、それを包み込む青い肉があった。皮膚は表面として不完全で、多くの関節で、骨や肉質が飛び出ていた。所々から生え出る紺色の毛は、何らの機能を期待するものでもなく、斑に五肢と胴体を覆っていた。藍獣は地をかき混ぜようとするように、大振りに足を振るい、前進する。

私は藍獣の首先の空白を見つめた。伴侶は表情を持たない。脊椎の先端にあるのは凸凹した切り株でしかなかった。そこには本来首があるべきだ、という観念すら否定する有様だ。そして不在の首の断面から少し下の、胸元との間には、蝋からなる人顔があった。それも、表情を持たない。

その内面があるとして、それは全身の動的な輪郭から読み取る他ない。体温の低下に由来するかのような震え、未知の五感刺激を受けた時の暫しの停止。それを情動の兆しと呼んで良いのか、動物と戯れることを知らなかった春伊にとって、それは無根拠な希望の域を出なかった。

二者が立つ石浜の右方向には、大きくせり出した崖があった。いつかは崩れ、海底の砂と化すのであろう、不安定な岩塊。これといった模様はなく、一様に灰色だ。そして左には、右の崖の未来を暗示するような、孤独な岩が立っていた。浜は平坦で、岩以外の構造を欠いていた。私の目には、何の特徴もない場所だ。地理学者、あるいは五感の研ぎ澄まされた獣であれば、何かを見つけ出すこともできるのかもしれないが。

藍獣は浅瀬の一点に向かって駆け出した。水深十数センチの奥底に、何かを見出して。

*

藍獣はかつて、人としての性質を剥ぎ取られていく病者だった。非定住の道を選んだ私と共に行くそれは、未だに地肉の誘惑に抗おうとしていた。三足で歩くことに慣れ、運動能力では私を凌駕するというのに、臆病さは以前にも増していて、車両の外に出ることを好まなかった。

既に私の望む彼女は、抽象的にしか存在しない。頭部の表皮を構成する細胞は死に絶え、表情を伺うことはできない。言語を操る能力はもう数ヵ月は見せていない。おそらく脳幹は肥大した首の内に下垂し、辛うじて繋がっている大脳も、もう殆ど機能を果たしていないのだろう。夜になると、それは器用に後部ドアを開き、外に出る。地肉はそこかしこにある。彼女はそこに腹を擦りつけるようにして、栄養を摂取する。露出した骨の幾つかはちょうど薄刃のようになっていて、削り取った肉質が開口に投げ込まれる。人間の時の口は使われず、身体の所々に生じた裂け目がその役割を果たす。人間の面影を残しているばかりに、彼女の行動からは消極的な態度が垣間見える。それでも遠からず、彼女は地肉を得ることに抵抗を覚えなくなる。

まだ少し前、食事という行為にまだ意味があった頃を思い出す。ワゴン車に敷いたマットレスの上で、彼女は長い時間を過ごしている。人間らしい筋肉の動きは残しているが、触覚以外の感覚は失われていた。彼女は、転化の途中の無力な状態を彷徨っていた。私が通常食物を持って行っても、促されなければ口を開かない。"給餌"の文字が頭を過ぎる。言葉とは残酷なもので、思いついた表現が眼前を上手く包括していると、それがどんなに冒涜的な表現であろうと、自分の中で否定することもできない。

私が涙を流していようと、それは表情を変えてはくれない。

残存者の拠点を巡る日々だったが、当然ながら、人間的な食糧を得られる宛ては少なくなっていった。いや、私が定住する意志を見せて、相応の労働を行えば、収穫の分け前を得ることは容易い。ただ、転化の終盤に差し掛かった病者に通常食物を与えるなどという浪費には、誰だって良い顔をしない。私とて、彼女以外の病者には割と冷血な部類だ。
拠点の案内人は、様々な人を目にしている役回り故か、私が病者を連れた旅人であることを早々に察する。私の方も、拠点への貢献の少なさを申し訳なく思いつつ、過客の立場に甘んじている。

集落を散策すると、自然と、視線は飼いならされた藍獣に向かう。各地の藍獣の大多数が人口密集地の内に留め置かれているとは言え、人と日常的に触れ合う個体は少ない。大抵は病者の段階からぞんざいに扱われ、人に慣れない藍獣と化す。元あった人間の名前も忘れられ、人目の付かぬ区画に押し込まれる。野生のそれと同じく、一旦藍獣と化してしまえば、人間的友好を教え込ませることもできない。病者を伴侶としている身からすれば、形だけでも共存が成されている場所の方が居心地が良かった。その点で、今いる集落は比較的に好ましい印象だった。それでも、非定住者であることには変わりなく、程なくして出ていくのだが。

私は海沿いを好んで移動した。車窓から流れ込んでくる潮風の匂いが懐かしかった。ただ、どこに行っても白い砂浜は見れない。全て青色の地肉に覆われてしまった。甲殻類も貝類も、久しく見ていない。

彼女が健在だった頃、二人で貝の採集の為に海に赴いたことがあった。その頃の彼女は研究者で、海洋微生物を題材に研究していたらしい。大学というものを就職の前の踏み台としか考えていなかった私にとって、彼女のありようは他人事みたいだった。水質改善の実験をする上で、特定の種類の貝が必要だったと言っていた。海岸をしらみつぶしに掘り起こす作業に、私も付き合った。薄っすらと桃色の二枚貝を懸命に集めていた。その時も彼女の目的を知らず、今となってもその研究の大義を知らない。とはいえ、彼女の為に身体を動かすことは苦痛ではなかった。軋む肉体への不満をぶちまけつつ、良い思い出を作れたと思う。

死に際の彼女も彼女の一部であったはずなのに、思い出すのは、ある程度離れた記憶ばかりだ。発病した後の彼女は、ずっと臆病で、ずっと愚鈍だった。彼女はタナトフォビアに囚われていて、知己で唯一の無発症者である私に、無理な願望を託すようになった。
「私の分も生きて」と無責任に言う彼女が嫌いだったし、彼女もそのことを分かっていたはずだ。少なくとも、かつての彼女は分かっていた。

また記憶がよみがえる。彼女と同居し、定住していた頃のこと。彼女には転居癖があって、互いに知り合った期間に対して一つ屋根の下に暮らしていた時間は短かった。お互いのことをよく知っているので、生活に大きな障害は無かった。彼女が学術界隈で身を削っている間、私はフリーで気ままに働いていた。重なり合う生活時間は充実していた。自然と彼女のことを知れるのは特に良いことだった。彼女が子守歌代わりにしているロックバンドを知ることができた。熱心なスポーツ観戦者であることが露呈した。食べ物にうるさい所があって、そこに育ちの良さが見出されたりした。軸のない私は、自然と、彼女の好みに寄せるように変わっていった。好意の、表出の仕方の一つとして。

私は可能な限り長くこの生活を続けたいと思ったが、彼女の転居癖を思うと、彼女をここにつなぎとめようというのは傲慢に思われた。

想定外だったのは、同居生活が二人のどちらかの意向によってではなく、天変地異によって絶たれたことだった。初期動乱の最中に、肉親の殆どが発病者として収容され、二度と顔を見ることも叶わなくなった。その点では、私も彼女も近しい境遇に陥った。道が分たれたのは、彼女が発病する傍らで、私は何の身体変化も経験しなかった時だった。彼女はマジョリティの終焉をひた走り、マイノリティの私は、無力に彼女の背中を見るしかできなかった。

転化を経験する彼女の傍らを離れないでいたことで、私がかつて抱いていた好意は別種のものになった。羨望と呼べたかもしれない引力は、やがて、郷愁の引き金に堕ちていく。

決別は確定していた。肉体的にも、精神的にも。地肉を幾ら食らおうと、私の骨格は変わらない。肌が腐り落ちることもなく、色素が沈着することもない。非定住生活が板につくまでしばらくは、通常食物に対する拘りもあったが、それも過去のことだ。何ヵ月を地肉と補助栄養剤だけで過ごしている。幸いにも、本質的に、私は食に無頓着な人間だった。彼女がまだ口を動かすことができた一時期は、自分を差し置いて彼女に貴重な人工肉を食わせていたほどだ。

車を停め、窓の外を見遣る。薄曇りの空の青は、地肉の青と溶け合い、一枚の風景画を成している。そこは荒廃した集落の近郊で、野に放たれた藍獣が這いまわっていた。それらは幸福に見える。主食に困ることなく、天敵におびえることもなく、青原を駆けることを許されている。そして貝殻がそうであるように、死に怯えることもない。生まれ持って死に怯えがちだった私は、それらを羨ましく思う。

私は何度も浜を訪れていた。いくつもの海辺の景色があった。どれも青に侵されていたが、自然地形の美しさは変わらずそこにあった。かつて、転化の最中にあった彼女は、来るたびに自らの身体の衰えを自覚し、しまいには自覚という行為も忘れて行った。今となっては、私の伴侶は変化を拒絶した藍獣で、どんな景色を前にしても、不明瞭なふるまいを続けることしかできない。

*

藍獣は、必死に水底に身体を擦り付けていた。波は水飛沫となって、視界を遮る。空も海もそれも、灰がかった青色で、遠目には、全てが溶けあうかのようだ。その激しさは、今まで見たことのないものだ。自らの損壊を厭わない生物の動きは、自ずと不気味に映る。彼女の死に顔は無事だろうか、と私は不安を覚える。陸上で活動している間は、蝋が削り取られる機会が無かった、海際の不規則な岩場であればどうか、保証がなかった。とはいえ、形式的なものだと自分に言い聞かせる。彼女は疾うにいなくなった。幻影は少しずつ薄れていくべきだ。私は悲しみを緩やかに受け止めれば良い。

ずっとそれを眺めていて、いつか、それは動きを止めた。水中に横たわり、眠るかのように止まる。どうしてだろうと私は不思議に思い、浅瀬へ歩みを進める。一歩ずつ、水中を移動する足首の感触が、心が冷えるのと連動するようだ。あれだけ動いていたそれが、どうして今更になってうずくまるのだろう。あんなに冷たい場所で。

それの左側に立つと、藍色の身体の損傷はあまりにも明らかだった。果たして、首と胸の間にあった彼女の顔は、見る影もなかった。そして胸元から腹部にかけて、大きな裂け目が出来ていた。幾多の口が一つの大きな開口となって、内臓を露わにしていた。空洞が多すぎた。きっと、多くの内臓があたりに溶けだしたか、流されて行ってしまったのだろう。

私はそれを抱きしめた。青色の肉体に腕を、指を埋めた。膨張した体組織に体温は残されておらず、ゴムのような感触だけがある。そうしている内に、私も体温を失っていく。青色の太陽に照らされながら、青色の海に浸り、青色の獣と共に在りながら。

茫漠とした意識でさざ波を見詰めていると、奥底で藍色の輪郭が浮かび上がってくる。私は徐に腕を伸ばし、水底に触れる。

岩には、藍色の繊維がこびり付いていた。手で触れると、地肉の一片であることが分かる。大陸を覆った異形の繊維質は、私の知らないところで、海をも侵そうとしていたらしい。さりとて、思うところは無い。私の頭蓋の内にあるのは、藍獣達の生の断片に過ぎない。太陽の変質も病者の出現もただの断片で、最初から、物語としての形を持たなかった。

伴侶を失った悲しみは行き場を持たず、今も私の心を爪で掻き毟っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?