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「レガシー」について考えてみた。

「レガシー」とは


東京オリンピック開幕まで100日を切ったところですが、

観客を入れずに行うべきか、大会自体を無しにするべきか、
という議論が白熱してきました。


当初 オリンピックを招致する際に組まれた計画からは随分かけ離れたものになりそうですが、


「レガシー」という言葉や考え方に関しては、招致活動から
ずっとこだわりを持って発信し続けているようにも見えます。



「レガシー(legacy)」の言葉自体を翻訳すると、「遺産」になりますが、

オリンピックを開催する上で特に求められている観点が、
"社会に"何を遺すか、なんです。


世界規模の これ以上ない大きな催しを、ただやって終わりにしないで、
この経験を未来にどう生かすか、までちゃんと考えられているか審査されて、開催地が決まったわけです。



日本が世界に誇れる「レガシー」といったら、やはり、

第二次世界大戦以降、戦争を自ら行わない立場を表明し続けて、
戦争知らずの国として認めてもらえている点
でしょうか。


戦争を始めてしまったために それまで築かれてきた他国との信頼を手放し、世界で孤立してしまった時代も味わった我が国。


終戦後に制定された憲法で"自ら戦争をしない"という誓いを立てて以降、
国単位での協力ができるようになった今では、
留学生や観光客として訪れる人たちも年々増えていきました。

逆に 日本企業や日本人が海外に生活の拠点を置くことも、
もはや珍しいケースではありません。


日本という国に対する信頼が、こうして何年も、何十年も、何世代にもわたって積み重なっているからこそ、

世界各国の文化に容易に出会える幸せな国になった、という意味では、

自国民から見ても、よその人から見ても、
間違いなく「レガシー」だと認識してくれるんだと思います。



僕らにとって「レガシー」とは


そういう視点で考えた時に、
僕たちに受け継がれてきた「レガシー」として真っ先に浮かんできたのが、


"バブル崩壊"以降の"平成不況"がもたらした、いわゆる「失われた20年(→30年)」を経た 僕たちの姿。
そして、その世代が社会の主人公となって立ち向かうべき課題たち でした。


僕たちは、
子ども時代に好景気を経験してこれなかったこと自体が負の遺産となって、
一人の力では解決できない問題が次々と現れる毎日を送っています。

頭の中はもはや ゴミ屋敷の状態だ、とも言うべきでしょう。


そういった日々を繰り返して積み上がったものも、
良くも悪くも 社会における「レガシー」なわけです。


個人的に苦しんでいる悩みごとも、
社会問題として解決するめどがたっていない課題も、
全て「レガシー」なんです。


放置していても変わらない悩みなのであれば、

それが「負の遺産」となって他の人に受け継がれていってしまうことをまず知って、
自分が生きている内に、どう利用するか考え 行動に移しておくべきなんだ という思いに至りました。


東京オリンピックがこの先 どういう結末を迎えたとしても、

特に僕らの世代は、今まで片付けられなかった残り物をうまく利用し処理する役割を担うんだ という決意のもと動かなければいけないことに気がつきました。


酒や薬などを使って忘れる暇があるならば、自分が生きている内に解決したい問題事を書いておこうという思いが一段と強くなった、最近の僕です。



「機能不全」が「レガシー」になる現代社会


「一億総活躍社会」を掲げて久しい日本社会ですが、

考え方やバックグラウンドの異なる人を受け入れる余裕が一人一人にないところを見ると、この数年で社会はあまり変わっていないように感じます。


特に、本心を出してありのままに生活できていないのが当たり前、
という意識が社会全体に相変わらずはびこっているのが問題だと感じます。


本心を無視して 操り人形のように体を動かしているだけでは、
個人的な満足感は生まれてくるはずがありません。


「何でもいいから仕事させてくれ」という姿勢は、その最たる例です。

自分が苦手とする分野であったとしても、今の生活環境を維持したいとの思いだけで一生懸命に頑張ってしまう人が多いような気がしてなりません。


はたから見ればお手本にしたくなる姿なんでしょうが、
学校でも職場でもそう言われてきた僕から見ると、
「これがあの人の本当にやりたいことなのかなぁ…」という思いで
ひたすら胸が締め付けられ 悲しい気持ちにばかりなってしまいます。



ありのままに表現した自分が受け入れられていない時点で「機能不全」に陥る、というのは、以前の記事でお伝えした通りです。

そういう視点で振り返ってみると、

平成以降の日本社会というのは、
需要と供給のバランスが、特に精神面で整っていないために
社会も人も「機能不全」に陥っているのが当たり前
で、

むしろ そういう思いを"しない方がおかしい"という思考回路になっている人も相当数いる という想像が、簡単にできてしまいました。


社会が勝手に疲れてしまっている、というよりは、
「機能不全」に陥っている人が多数を占める社会になってしまっているように見えるのです。


この現実に対して、酒や薬などでひたすら忘れて 気づかないふりをしている限り、そのままでいいと思い込んでしまう傾向が、
父の姿にも現れていたのを思い出しました。


そんな親と共に育った僕ですが、
生まれてからずっと「機能不全」な環境に居続けた事実を最近知りました。

今のところ、需要と供給がかみ合った職場に出会えていません。



「ニヒル」という名の「レガシー」


実際、正社員の経験をしたことがある同年代の友達と話していると、
今の状況を維持するのがやっとで、未来図に関しても自由に描けていない共通点が浮かんできました。


やはり"平成不況"に生まれ育った僕の世代(1994年生まれ)は、
"ずっと不況だったために"背負うことになった「見えない痛み」がたくさん存在しているように思います。

この「見えない痛み」こそが、先人から受け継いだ「レガシー」なんです。


将来の展望が定まらない理由を、自分なりに考えてみました。


・無条件の愛情の意味がちゃんと分かっていないので、困った時に頼れる人が少ない or いない。

・命も危うくなるようないじめの現場に遭遇したりして 人に頼る意味がないと感じた経験がたくさんあるために、感情表現がいらない表面的なやり取りだけで会話を終わらせる癖がついてしまった。

・貯金がないので、自力で仕事を立ち上げる準備すら整っていない。

・親やきょうだいとの関係が悪かった人は、人生における敵や障害物のような存在になっている場合もある。

・仕事は単にお金を稼ぐ行動にしか思えず、稼いだお金を見ることでしか達成感が生まれない。


そういった環境で仕事や生活をしていかなきゃいけない、となると、
心身の状況を確かめる余裕すら無いまま「何でもやります!」と言って次々と求人に飛びつく人もいて当然だなと思いました。

(僕も丈夫な心と体だったら、こういう行動をとっていたと思います。)

でも、よく考えてみると、土下座してまで「どんな役割でもいいから 奴隷として働かせてください!」とお願いしている、恐ろしいシチュエーションです。



「機能不全」な環境に居れば居るほど、
一生懸命頑張ってきた甲斐がないような結果にも 出会いやすくなってしまいます。


努力が報われなかった、とも言える結果を受け取ってしまうと、

「自分は何のために頑張ってきたんだろう?」

「全力を尽くしても褒めてくれない人生なの?」

という絶望感が押し寄せてきます。


そういった気持ちを理解してくれる人がいないと、
前向きなエネルギーに切り替わるチャンスすら生まれません。


そういった思いをくすぶらせたまま引きずっている内は、
ありのままの感情に任せて行動したこと自体が 強烈な苦手意識になります。

トラウマとも言い換えられるこの意識こそが、「見えない痛み」なんです。


そんな痛みを負い続けたくない という思いから、
自ら仮面をつけて人や仕事に接する傾向が生まれてきてしまいます。


自分の存在を消していれば 自分も社会も成り立つような考え方を、
「ニヒル」「ニヒリズム(虚無主義)」と言います。

(世間一般では、「ニヒル」の方が頻繁に使われているようですが、
「ニヒリズム(nihilism)」の語源が「ニヒル(nihil)」なので、
無表情や冷めている感情表現を指す意味合いを両方とも持っています。)



「機能不全」な経験を多く積み重ねて、
「見えない痛み」を伴いながら、
「ニヒル」な生き方を選ぶ。

これが、"平成不況"に生まれ育った世代が受け取った「レガシー」です。



今の子どもたちに何を遺すのか


元号が平成から令和に変わったものの、
"平成不況"から"コロナ禍"に名前が変わっただけで、
不況から抜け出すことができていないこの社会。


オリンピックの経済効果はもう期待できない上に、
2025年の万博でさえ期待していいのか分からなくなっているような雰囲気を感じています。


将来の好景気が見通せない という意味では、僕の世代が子どもだった時と同じ状況です。
家庭や学校といった集団生活の場で「機能不全」な環境に置かれている人はどこかにいるはずです。



「機能不全」に陥っている社会では、
そこに居るだけで 様々な人の心を痛めつけてしまうような
マルトリートメントが日常的に、無意識に行われている、
という表現ができてしまいます。


ありのままに、自由に表現できる環境が整わないために、
「本心を他人に表現しても良い反応は得られないだろう」
「皆 どこか我慢しているみたいだし、自分も何か我慢しなきゃ」と思う姿は、まさに大人しい子ども、「アダルトチルドレン」です。


表面的なやり取りで済ませようとする行動は、
他人を心から信じていない印であり、
人間たちが紡いでいる社会を信頼していない印でもあります。

そういった人は、社会で問題化しているものごとを根本から解決しようという気持ちになってくれない傾向を見てきました。


すると、僕の世代が既に抱えているのと同じくらい or それ以上の負の遺産を次の世代が引き継ぐ状況が生まれてしまいます。


「仕事をさせてもらえる環境があるのだろうか?」という不安、
奨学金という名の借金をどう返すかという問題、
何世代にもまたがる話し合いだから簡単に解決するとは限らない遺産相続の件…

我々の世代の悩みの代表例といったら こんなものでしょうか。

これらが僕の世代で解決しなかったら、さらにしんどい思いを次の世代に背負わせてしまう、ということなんです。
(自ら借金の責任を負わないにしても、社会全体がその肩代わりをするわけで、その悪影響が間接的にかえってくる場合も出てくることでしょう。)


そうやって人間や社会との関係がうまくいかなかった経験ばかりしてしまうと、人づきあいに消極的になる感情や社会構造を植え付けることになりかねません。


"平成不況"のあおりを受けた僕が そういった状況になってしまっているので
間違いありません。


本来であれば、色々な面で余裕のある人たちに助け舟を出してもらいたいところですが、

見えないウイルスの問題があって接触ができない上に、どんな人も生活が苦しくなってしまっています。


緊急事態の医療体制と同様に、社会においても
日常的に「命の選別」が行われているように見える場面があって、
僕も悔しい気持ちになったり 無力感が湧いてきたりします。



「そんな時代に 自分は何を信じたらいいのだろう?」
「何を目指して行動すれば自分の存在が認められるのだろう?」

僕も考えさせられたこれらの悩みに直面している子どもたち。


いずれ「こんな時代に生まれた自分は…」と、自らを否定する思いになり
未来に無気力な姿になる時もやって来ることと思います。


それを聞いた大人たちは、冷静な気持ちでこの言葉をかけてみてください。

「あなたが悪いことをしたからこうなったわけじゃないんだよ」


そして、その子の悩みや意見をひたすら聞きましょう。

その上で、今、現実的にできることは何か 意見を出し合ってください。


学校へ行く意味が見出せずに悩んでいるのであれば、
「それなら、家に一日中居ても良いよ」と言ってみましょう。


良い成績を取らせる経験よりも、本心を素直に表現して許してくれた経験の方が大事なんだと、僕は伝えたいです。

僕の子ども時代は、良い成績を取りたいあまりに、本心をさらけ出すのをひたすら避けてきてしまったからです。
そして今、人と会うことも話すことも怖い日常を過ごしているからです。



また、大人の側で、NGワードは設けないでください。

本音を体の外に吐き出さないことには何も始まらないからです。

体内の毒素と一緒で、
ずっと留めていると 猛毒となって心身を壊していってしまいます。


人のあらゆる感情を理解することが、人間関係、ひいては社会との信頼関係をつくる上での土台なんだと分かっていただきたいのです。



未来にどんな「レガシー」を遺すにしろ、

その社会の主人公となるべき人たちの心身を、
子どもの内に壊さないよう 接し続けてほしいと心から願うばかりです。

オーノ

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