*小説《魂の織りなす旅路》 老人・お父さん
【老人】
その老人は目が見えない。老人はソファーにもたれ掛かると静かに瞼を閉じ、追想に身を委ねた。
「お父さん、あれに乗りたい!」
赤い風船を持った娘が、父親の服の裾を引っ張った。父親は娘の手から風船を受け取り、空中ブランコ乗り場へと娘を送り出す。
今日、娘は何度このブランコに乗るだろうか。父親は近くのベンチに腰をおろし、回転しながら舞い上がっていく娘を眺めた。満面の笑顔で手を振る娘に手を振り返す。幸せそうな娘の表情に胸が熱くなる。
妻は娘の顔を知らない。生まれて初めて、この世の空気を肺いっぱいに吸い込んだときの娘の顔も、今こうして空中を舞い上がり、愉快げに白い歯を見せている娘の顔も、妻は知らない。
父親は、10年前の今日を思い出していた。喜びと悲しみが、同時にやってきたあの日のことを。胸元から手帳を取り出し、表紙を開く。優しい微笑みがこちらを見つめている。父親は胸につんと込み上げてくるものを押し留めながら、その微笑みにそっと触れた。
「きっと、お腹の子は女の子よ。私にはわかるの。」
絶対に女の子だと言い張る妻は、胎児の性別を調べてからにしようという父親の意見を退け、わかっていることだからと女の子用のベビー用品を買い揃えた。
名前も決まっていた。耀(ひかり)だ。この名前なら男の子が生まれても問題ないだろうと、父親は妻の願いを聞き入れた。
「君の言うとおりだったね。耀は女の子だ。」
そう呟くと、父親は空中ブランコを見上げ、娘に手を振った。娘は嬉しそうに手を振り返す。明るく素直ないい子に育っている。
妻はいつも、大きくなったお腹を愛おしそうにさすりながら、この子は特別なのと言っていた。父親は、自分の子どもが特別なのは当然だろうと思いつつ、妻がそう口にするたび妻のお腹をさすり、この子は特別だよと頷いた。
妻は、自分の命の儚さをよく知っていた。父親は出産すると言い張る妻に強く反対したが、妻は頑なに譲らなかった。
「この子は私の大切な子。あなたの大切な耀。」
空中ブランコを降りた娘が、父親のもとに駆け寄ってくる。
「ねぇ、もう一度乗ってもいい?」
娘は父親にぎゅっと抱きつき、せがんでくる。
「今日は耀の誕生日だよ。何度でも、乗りたいだけ乗るといい。」
とたんに娘は目を輝かせ、歓声をあげた。人目も憚らず、父親の頬にキスをする。父親が行っておいでと促すと、嬉しそうに体を弾ませ、スキップしながら乗り場へと向かっていった。
【お父さん】
係員のお兄さんが、腰ベルトをカチッと閉めた。ブザー音が鳴り響き、周りの景色が少しずつ動き始める。地面が遠のき、体が宙に浮いていくのが嬉しくて、私は足をブラブラさせた。視界が広がり、空がどんどんと大きくなっていく。
私は波動を解放し、波動で風を感じた。波動で空の大きさを感じ、波動で空飛ぶ鳥を感じる。そうして私は、全身で波動の歓びを味わう。
なんて気持ちがいいんだろう。私が手を振ると、お父さんは優しい笑顔で手を振り返してくれる。お父さんは、私のことが大好きなのだ。
私も大好きだよ! そう強く思うと、お父さんの境界線が震えた。お母さんの波動が、そんな私を抱きしめる。お母さんも、お父さんのことが大好きなのだ。
空中ブランコがぐるりと一回転し、再びお父さんの方を見下ろすと、お父さんは胸ポケットから手帳を取り出すところだった。あの手帳には、お母さんの写真が収まっている。お父さんはたびたびあの手帳を開いて、お母さんの写真を優しく撫でるのだ。
私はそんなお父さんを見るたび、切なくて胸がぎゅぅっと締めつけられる。お父さんの波動は、お父さんの形をした境界線に閉じ込められていて、私のようにお母さんの波動と抱擁し合うことができないからだ。
お父さんの波動は、境界線の内側でいつもお父さんの境界線を揺らしている。ときおりその揺らぎから波動の輝きが漏れ出てくることがあって、私はその力強い輝きに惹かれていた。
空中ブランコの回転する勢いが弱まる。みるみるうちに地上が近づいてきて、とうとう地面に足が着いてしまった。ブランコを降りた私は、お父さんのもとに駆け寄り、もう一度乗りたいとせがむ。今日は耀の誕生日だよ、何度でも乗りたいだけ乗るといいと言われ、私は歓声を上げた。それからお父さんを抱擁し、お父さんの境界線から漏れ出ている、力強く輝く波動にキスをした。
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