*小説《魂の織りなす旅路》 差異
【差異】
誰もが差異を抱えて生きている。差異を抱えたまま人と繋がり、差異を抱えたまま己の人生を選択する。
私にとって、そうした差異から距離を置く時間はとても大切で、いつも穏やかで静かな場所を探している気がする。たとえば、この喫茶店のこの片隅の席。店内には穏やかな曲調のクラシックが抑えた音量で流れていて、空いているときは自分だけの時間に身を浸すことができる。
カランコロン。喫茶店のドアが開き、絨毯を敷き詰めた店内に、鐘の音がすうっと吸い込まれていく。黒髪を無造作に束ねた女性が、こちらに向かって歩いてきた。今は誰の差異も感じたくはない。こんなに空いているのだから、離れたブースへ行けばいいのに、あろうことか、その女性は隣の席にどさっと腰を下ろした。
私は小さくため息をつくと、ぬるくなったコーヒーをひと口すする。この女性の差異は一際大きい。このまま隣にいたのでは、ひどく疲れてしまうだろう。諦めて店を出るしかなさそうだ。
自らの差異に気づき、その差異を小さくしていける人は思いのほか少ない。ほとんどの人は歳を重ねるごとに、その差異を大きくしていく。
商店街から人気のないひっそりとした横道に入ると、ブルブルブルッとバッグの中のスマホが震えた。スマホを開くと画面上部に「今から会えないかな?」の文字。彩夏(あやか)だ。
私 いいよ
彩夏 相談にのってもらいたいことがあって
彩夏 ゆっくりうちで話したいの
私 了解!
彩夏 大学の正門に着いたらLINEして
私 はーい
彩夏は大学近くのアパートで、一人暮らしをしている。大学では一緒にいることが多いが、アパートを訪ねるのは初めてだ。正門に着いてLINEをすると、彩夏はすぐにやってきた。
「ここからすぐなの。3分くらい。」
大学は閑静な住宅街にある。アパートは噴水の水音が耳に優しい、手入れの行き届いた小さな公園の隣にあった。エントランスと自室の両方がオートロックになっている。ドアを開けた彩夏は照れくさそうに、
「どうぞ、狭いんだけど。」
と私を招き入れた。
彩夏は差異が小さいので、言葉や態度をオブラートに包んで表現する必要がない。こんな風に一緒にいてほとんど疲れない友達は、大学では彩夏だけだ。
「この部屋に友達を入れたのって初めて。」
彩夏は照れくさそうに言いながら、テーブルに置かれたマグカップにコーヒーを注いだ。
「なんかね、耀(ひかり)だったら、こう、もやもやしているものをふわぁって、取り除いてくれるんじゃないかと思って。冴羽さんがね・・・」
冴羽さんはご夫婦ともに陶芸家の、父の知り合いだ。昨年末に、彩夏と2人で冴羽さん宅に泊めてもらい、陶芸の基本的な技法を体験した。
「陶芸家にならないかっていうの。なんかね、お母さんまでその気になっちゃって。」
陶芸体験のとき、冴羽さんご夫婦が彩夏のセンスの良さに目を見張っていたことを思い出す。デザイン関係の仕事をしている彩夏の母親は、娘に美術系の才能を見出してもらえたことが嬉しくてたまらないのだろう。
「陶芸体験のときの彩夏、ものすごく楽しそうだった。」
いつもどこか皮肉めいた眼差しを持ち、明るさの中にも消化しきれない何かを抱えているように見える彩夏が、陶芸のときはとても伸びやかに振る舞っていた。あのときの清々しい彩夏の表情が脳裏に浮かぶ。
「あんなに開放的な彩夏は初めて見たから、彩夏に向いているんだなって思ったよ。」
私がそう言うと、彩夏はふうっとため息をついた。
「確かにね。とても楽しかったの。解き放たれたような爽快感があって。でもね、体験が楽しかったからってそんな簡単に決めちゃっていいのかな。」
「簡単でもないんじゃない? 冴羽さんは彩夏に才能があると思ったから、わざわざ声をかけてくれたんだよね。楽しかったっていうなら、私も楽しかったよ。でも、私には声はかかっていない。
こんな人生を左右する大きなことを、冴羽さんご夫婦が簡単な気持ちで言ってきたとは思えないな。冴羽さんご夫婦にとっては、簡単な誘いではなかったはずだよ。」
彩夏の寄せられていた眉根がふっと開く。
「ところで、陶芸家ってどうやってなるのかな? 冴羽さんの弟子になるとか?」
「冴羽さんの家の近くに県立の陶芸学校があるんだけど、お母さんには私たちが面倒見るからって、そこに通うことを勧めてくれているの。」
「そこまで言ってくれているんだ。すごいね。」
「そうなんだけど。あまりにもスムーズに話が進むから、ホントにいいのかなって、逆に不安になるんだよね。」
そう言うと、彩夏は目線を落とした。両手で包み込んだマグカップを、心許なげに揺らしている。
「そういう勢いっていうか、自分で起こそうとしても起こせないエネルギーの流れって、人生に一度出会えるかどうかの大きな波だと思うな。
私ね、人生の波に乗るタイミングをとても大切にしているの。どんなに小さな波でもね、躊躇しているとタイミングを逃してしまうものだから。彩夏の今の波は、どんなに求めてもなかなか出会えない貴重な大波だから、私だったら喜んでその波に乗っちゃうけどなー。」
波に乗るのに力は必要ない。身を任せればいいだけだ。あとは波が送り届けてくれる。
「彩夏は陶芸が好きで、本当はやってみたいと思っている。それが本音だよね?」
「うん。きっとね。自分でも何が本音なのかがわからなくなっちゃっていて。冴羽さんが誘ってくれたときはね、その場でその話に飛びつきそうになったくらい、ものすごくやってみたいと思ったんだよ。でもね、そのあとすぐに躊躇したの。陶芸なんかで将来食べていけるのかなって。だってね、現実的に考えてそう思わない?」
「現実的・・・ねぇ。難しいなぁ。」
私は思考を巡らすために、ゆっくりとコーヒーを喉に流し込んだ。
「難しいっていうのはね、私には何が現実的で、何が現実的じゃないのかがよくわからないからなの。私にとっての未来って、どんな未来も現実的ではないんだよね。」
「どんな未来も?」
「うん。現実的ってなんか漠然とした言葉だよね。だって、これから先何が起こるかなんて、誰にもわからないんだもの。お金の価値、社会の常識、自然環境、科学技術、自分を取り巻いているあらゆるものは、その時々に応じて変わっていくものだよね。
うまく言えないけれど、その時々に応じて変化していく将来を、今このときの現実に即して考えるというのは、私にはね、まだわからない未来を、無理やり現在にはめ込もうとしているようにしか見えないんだよね。果たして、そういう思考の今現在を現実と言えるのかなって。」
「それって、まだわからないまだ来ていない未来で、今を生きようとしているってことかな。」
「そうそう! そういうこと。」
「陶芸をやりたいと思ったのは今を生きる私。躊躇したのは、未来を現在にはめ込もうとした私ってことだね。だけど、経済的なことを考えるとなぁ。いつまでも親に頼っているわけにはいかないし、安定した職業を選ぶ方がいいだろうって思っちゃうんだよねー。」
「でも、その職業が将来もずっと安定しているとは限らないんじゃない? 人員削減とかね。会社を辞めざるを得ないことなんて、いくらでもある気がするなぁ。今の世の中、未来の視点で人生を選択して、悶々とした気持ちで生きている人が多い気がするよ。なんか違う、本当の自分がわからないって。
それに、変化のない人生なんてあり得ないと思わない? 年だって取るし、自分を取り巻く人間関係だって変化するし、変化に応じて安定が揺らぐことなんて普通にたくさんあるよね。
それなら、変化を否定して生きるより、変化という波に乗りながら生きる方が、私は気持ちが楽になる気がするんだけどなぁ。」
「変化を否定して生きるより、変化という波に乗りながら生きる。」
噛み締めるように、低い声で呟いた彩夏の境界線が揺らぐ。ほんの一瞬、その揺らいだ境界線の隙間からほのかな煌めきが見えたとき、ふふふっと彩夏が肩を震わせながら笑った。
「まったく。私ったら何を怖がっていたのかな。安定というマヤカシに自分が見えなくなっていたみたい。 この私がどこかの企業の社員だなんて笑っちゃうよね。 」
「ふふっ。 ね、私には想像できないよ。」
彩夏は目を細めると、右の口角を上げた。
「ほんと、自分が上司や同僚に囲まれて仕事をしているところなんて、想像つかないよ。ただでさえ周りに合わせるのが苦手なんだから。」
「今の彩夏の現実は、陶芸をやってみたいと思っていること、周りがそのために動いてくれていること、それから、周りと折り合いをつけるのが苦手だってことだね。」
私たちは顔を見合わせると、大笑いした。ひとしきり笑うと、部屋の中がしんと静まり返る。私はその静寂に、そうっと丁寧に言葉を紡いだ。
「どんな未来も現実ではない。これね、未来に振り回されないように、私が心に留めている言葉なの。今を生きるためにね。」
私の顔をじっと見据えた彩夏の目に、力が宿る。
「私ね、ありもしない未来に侵食された今を生きるなんて、そんなの耐えられない。本当の今を生きたい。それなら今やりたいことをやる、だね。」
彩夏は晴れ晴れとした表情で、大きな伸びをした。
「耀に相談してよかった。」
彩夏の差異がさらに小さくなる。揺らぐ彩夏の境界線から漏れ始めた、ちらちらと瞬く魂の波動に、私はそっと指先で優しく触れた。
次章【魂】につづく↓
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