*小説《魂の織りなす旅路》 魂
【魂】
老人は閉じていた瞼を静かに開き、その何も映し得ない瞳で妻を見た。今日の風は柔らかいねと妻が言う。今日の風は柔らかいねと、老人は頭の中で何度も何度も反芻する。そして、居間のソファーから立ち上がると縁側に向かった。
縁側の籐椅子に腰を掛け、水音に耳を傾ける。竹筒から水鉢へと流れ落ちる水の音。この家を購入したときに、妻の希望で置いた水鉢だ。
2人でこの籐椅子に座り、この水音をBGMによく本を読んだものだった。そのときに妻が淹れてくれたコーヒーの芳ばしい香りが、老人の喉から鼻へと抜けていく。
あれから何年経っただろう。老人の見えない瞳に映る妻は、いつまでも若々しい。僕はこんなに年をとってしまったよ。老人は呟く。目が見えないから、もう本を読むこともできないんだ。
あの空の透けるような青が好き。妻の声が聞こえてくる。あの空の透けるような青が好きと、老人は頭の中で何度も何度も反芻する。
妻は言った。楽しかった思い出もあるはずだと。もし私が先に死んだなら、あなたには私との楽しい思い出を抱えて生きていってもらいたい。私の悲しい顔や渋い顔なんて、1ミリも思い出してもらいたくない。きっとあなたのご両親も同じよ、と。
妻に促されながら思い起こした、両親との楽しい記憶。父の肩車、母の丸いおにぎり、山頂で食べたとろろそば、潮干狩りで採った大量のアサリ、川沿いのキャンプのバーベキュー。今ではどの思い出にも、その思い出を語る自分と、それを微笑みながら聞く妻の姿が映り込んでいる。
清々しい空気を身に纏った妻は、いつも朗らかでおおらかだった。そんな妻が、なぜ陰鬱な性格の自分を選んだのか。老人は、妻と交わしたあの日の会話に沈潜した。
「あなたは差異がとても小さいから、一緒にいて心地がいいの。」
「差異が小さい?」
「うん。言葉にするとしたら、脳と魂の差異ってところかな。魂だなんて変に思うでしょ。でもね、何かの宗教とかいうんじゃなくて、私はそう感じているって話なの。」
「脳と魂って、どう違うのかな?」
「体って物質でしょ。だから脳も物質。魂は物質ではない、その人の本質って感じかな。脳と魂の思考が離れている人って、私にはとても不安定に見えるの。ブレやすいっていうか、自分の本質とは異なる思考で行動するわけだから不自然だし、無理をしているように見えるの。
裏表があるっていうのとも違うから、なんか上手く表現できないんだけれど、素直じゃない、純粋じゃないって感じかな。」
「僕は、自分を素直だとも純粋な心を持っているとも思えないんだけれど。」
「素直で純粋っていうのはね、本質に対して素直で純粋ってことなの。心はね、物質である脳が生み出すものだと思う。だから、心が素直で純粋っていうのとは違うの。」
「心は物質が生み出すもので、魂はそれとは別の生まれ持ったその人の本質?」
「そうそう。みんな本質を見失って、心に踊らされちゃう。脳に振り回されちゃうんだよね。でも、あなたは振り回されない。ブレない安定感がある。差異が小さいってそういうこと。」
水音が老人の耳をくすぐった。この水音は、いつ、どこで聴いた水音だろう。大学図書館の裏庭で聴いた水音だろうか。この家の縁側で聴いた水音だろうか。妻と2人で聴いた記憶の水音が、今この時の水音と重なり合い、老人は妻の魂を懐かしむ。
今日の風は柔らかいね。
あの空の透けるような青が好き。
今日は本の文字が楽しげに踊っているように見えるの。
あの鳥の鳴き声は悲しげに聞こえるね。
次章【手紙】につづく↓
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