*小説《魂の織りなす旅路》 書道教室
【書道教室】
「また明日来てもいい?」
「もちろん!待ってるね。」
茜は腰をかがめた私にぎゅっと抱きつくと、嬉しそうにスキップしながら帰っていった。
この書道教室に、丁寧なお辞儀をして帰っていく子どもは1人もいない。師匠はそういう儀礼的な所作が大嫌いなのだ。ひとつくらい型のない場があってもいいだろうと師匠は言う。
ここでは己の本質と向き合うことが求められる。そのためには本質を閉じ込めている殻を破らなければならない。型通りの礼儀や常識といったものは、その人の本質を閉じ込める殻にしかならないというのが師匠の考えで、私はそんな師匠を尊敬している。
今日来た茜が明日も来られるのは、この教室が月・火・金・土の13時から19時の間であれば、いつでも何度でも来ていいことになっているからで、この珍しいシステムも、本質を型に閉じ込めないという師匠の信念のあらわれだ。
「寛滋(かんじ)さん。悠(はる)さんから連絡はありましたか?」
寛滋さんとは師匠のことだ。師匠と呼ばれるのを嫌う寛滋さんは、初対面の人間が師匠と呼ぶと必ず一喝する。一喝というのは言い過ぎかもしれないけれど、それくらい強く言わないと師匠と呼び続ける腰の低い人間がいるのだから、寛滋さんとしても仕方がないのだ。
そんな寛滋さんを心から慕っている私は、心の中ではいつも師匠と呼んでいる。
「ああ。何日か前に連絡をくれたよ。悠もよく頑張ったよ。最期まで自宅で看病して。穏やかに亡くなったと言っていたよ。」
「悠さんも、きっと思い残すことなく送り出せたでしょうね。」
生徒がいなくなりしんと静まり返った教室に、師匠と私の声がぼんやり浮遊する。私は、熱いお茶の入った茶碗をゆっくりと口元に当てた。
「ああ。本人もそう言っていたよ。できる限りのことができたって。それから、会社を辞めてあちらに残ることにしたそうだよ。母親をひとりにしておくのは不安だからってね。頼れる親戚もいないらしい。悠は30過ぎたばかりだったよな?」
「はい。32歳だったかな。」
「まだ若いのになぁ。母親を日本に呼び寄せることも考えたらしいが、父親が日本人とはいえ、母親にとっての故郷はオーストラリアだからなぁ。
新しい仕事も決まったらしいよ。仕事が始まる前に母親を連れ出して、車で1週間ほど旅行するつもりだと言っていたよ。」
お世辞にも上手いとは言えない悠さんの書には、飾り気のない穏やかな伸びやかさがあった。それは、悠さんの本質そのものだと私は思う。
悠さんはオーストラリアで生まれ育った。父親が日本人だったこともあり、幼い頃から日本には興味があったという。書道に神秘的な魅力を感じていた悠さんは、いつか日本で書道を習いたいと、さまざまな書道家の作品をネットで調べまわったそうだ。
しかし、実際に見てみないことにはわからないと、こちらに来てから足繁く書道展へ通うようになった。師匠の作品に出会ったときは、魂が震えたという。
最初のうち土曜日に来ていた悠さんは、そのうち個別指導が受けたいと、個別指導限定の日曜日にも来るようになった。個別指導日は、対象者だけが13時から19時まで自由に出入りでき、師匠と一対一の時間以外は私が助言することになっている。
悠さんはいつも2時間ほど早めに来たので、私たちはほどなく打ち解けていった。教室には私たち2人しかいないことも結構あって、そんなときはよく語り合ったものだ。
悠さんは父親のことをたびたび話題にした。悠さんの父親は日本のことを一切話したがらず、どんなに頼んでも写真すら見せてくれなかったそうだ。
悠さんの苗字は母方のもので、悠さんが父親の旧姓を知ったのは、日本語で書かれているひどく色褪せた封筒を父親の書斎で目にしたときだった。見てはいけないものを見たという後ろめたさから父親には黙っていたが、差出人の住所と名前は書き写しておいた。差出人の苗字が、宛名に記された父親の苗字と同じだったからだ。
来日してすぐに、悠さんは書き写しておいた住所を訪ねた。父親に無断で調べている以上、差出人に会えたとしても素性を明かすつもりはなかった。父親のルーツを知ることができれば、悠さんにとってはそれで充分だったのだ。
しかし、そこは駐車場になっていた。広々とした道路沿いにオフィスビルや高層マンションがそびえる街並みからは、最近区画整理されたであろうことがわかる。
誰かに尋ねてみようにも、父親が日本に住んでいたのは半世紀も前のことだし、あの封筒もかなり古いものだった。果たしてそんな前から住んでいる人など、この街に残っているだろうか?残っていたとして、どのマンション、どのビルを探せば会えるのか?
悠さんは不動産屋なら何か知っているかもしれないと、いくつかの不動産屋を回ってみた。けれど、どの店舗にも封筒の差出人のことを知る人は1人もいなかった。
ある日のこと、悠さんは酒の席で「興信所」という言葉を耳にした。どうやら探偵のようなものらしい。話の流れでそれとなく聞いてみると、酔いのせいもあるのだろう、なんだお前は興信所も知らないのかと、その場にいたみんなが競うように、手持ちの興信所情報を悠さんに教え出した。
おかげで父親のことを一切話すことなく、悠さんは評判の良い興信所情報を手に入れることができたのだった。
翌日、悠さんはその興信所まで足を運んだ。評判通りとても親切で、驚くほど迅速だった。
そこに住んでいたのは父親の父方の伯父、悠さんの大伯父だった。彼は定住を嫌ったらしく、建設業界を転々としながら全国を渡り歩いていた。封筒に書かれていた住所にも2年しか住んでいない。若いうちに離婚して以来、子どももおらず、天涯孤独のまま8年前に亡くなっていた。
何故、悠さんの大伯父は定職に就かず、定住もせず、全国を転々としていたのだろう?
興信所が調べてきた内容に、悠さんは言葉を失った。悠さんの祖父は、金銭を盗むため人家に押し入り、その一家を殺害するというむごたらしい事件の首謀者だったのだ。
祖父は死刑となり、祖母は自ら命を絶っていた。悠さんの大伯父が離婚しているのは、この事件が原因なのかもしれない。殺人犯の兄という素性が知られるたびに、もしくは知られる前に住まいを転々としていたのだろう。定職には、就かなかったというより就けなかったのかもしれない。
事件当時、悠さんの父親は15歳。オーストラリアに来たのは23歳ごろのことだったらしい。どういう経緯でオーストラリアへ来ることになったのか、悠さんの母親は知っているようだが、父親同様に口を閉ざしたままだという。
「でもね、父は僕の名を呼ぶたびに、日本を思い出していたんだ。祖母の名が悠江(はるえ)だと知ったときは心底驚いたよ。
殺人犯の妻、しかも自ら命を絶った人の一字が僕の名前だなんて、さすがに最初は複雑な気持ちになったけれど、僕は今、この名に向き合い、耳を傾け、この名と語らいながら、この名ととともに生きている。」
悠さんは、悠江と私に書いてみせながら言った。
「父はね、こんな過去を背負っているようにはとても見えない人なんだ。いつも朗らかで、どんなときも穏やかでね。それは、こういう過去を内包していたからこそだったんだと思ったよ。
父は強い人だ。そして、とても暖かい人だ。僕は日本に来て、父の過去を知ることができてよかったと思っている。」
私はぬるくなった茶碗を口元から離すと、そっと机の上に置いた。そして、僕は僕にできる限りのことを父にしてやれたと思う、という手紙の一文を思い出し胸が熱くなった。
「寛滋さん、この間依頼があった料亭のデザインなんですけど、いくつか書いてみたんです。見てみていただけますか?」
私は机に手をつき勢いよく立ち上がった。悠さんは私の全てをわかってくれていた。だからこそ、気軽にやりとりができるメールやLINEではなく、手紙を書いてきたのだ。
私は悠さんの手紙を持って、時の流れが2人を再会に導いてくれるまで、私の人生を、私のこの2本の足で、一歩一歩踏みしめながら切り拓いていく。
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