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*小説《魂の織りなす旅路》 時間

少年は己の時間を止めた。目覚めた胎児が生まれ出づる。不毛の地に現れた僕は何者なのか?

【時間】

 炎の変幻自在な動きに、魂の波動が共鳴する。この波動が身体のあらゆる組織を振動させると、私は物質世界からの解放を感じて恍惚となる。
 本当は、休日のたびにひとりキャンプがしたいのだけれど、女性のひとりキャンプは危険がつきものだ。危険を回避するために、キャンプ場で人の多い場所を選ぶなど本末転倒なので、休日のたびにとはいかないけれど、私はグランピングを利用している。

 「これは夜にお勧めのハーブティー。」

 焚火の上に吊り下げられたケトルから、真っ白な湯気が立ったのを見て、私はティーパックを入れたカップにお湯を注いだ。

 「はちみつ入りのカモミールティーなの。3分待ってね。」

 「波の音。炎の揺らぎ。ハーブティー。」

 栞(しおり)はうっとりとしながら呟く。

 「こんな休日の過ごし方があったなんてね。ここは時間があってないようなもんね。私、時間に追われちゃってたんだなぁ。」

 「このところ忙しそうだったから。」

 「なんかね、いつも何かにせき立てられている感じ。焦燥感っていうのかなぁ。何かしていないと不安になるんだよね。」

 「仕事のこと?」

 「仕事だけじゃないかなぁ。なんだろ、全部。何もかもが中途半端な気がして、周りの人たちがみんなすごく見えちゃって。私は何もしてない、何もできてないって焦っちゃうんだよね。」

 「私も焦燥感に駆られることはあるけれど、周りの人を見ることはないなー。」

 「えー、そうなの? 気にならない? 耀(ひかり)の仕事なんて、すごい人がたくさんいそうじゃない。」

 「だからかな。すごい人がたくさんいすぎて、そんなのいちいち見てたら、何にも手につかなくなっちゃうよ。」

 焚火がパチパチと心地よい音を立てる。

 「同じくらいのレベルの人もたくさんいるけれど、そんなの見たところでどんぐりの背比べにしかならないしね。だから、そういうのは特に見ないようにしているの。」

 「見ないように? 意識的にってこと?」

 「そう。同じくらいのレベルの人って、やっぱり気になるよね。でも、気にしたところで自分のためになるとは思えないし、気にしている時間がもったいないなって思うようになってからは、意識的に見ないことにしているの。」

 「なるほどねー。時間がもったいないかぁ。」

 「時間って、いろんな感じ方があるでしょ。私は私の時間の流れの中で生きていたいから。」

 「時間の流れ、ねぇ。」

 栞は背もたれに体をあずけると、無数に浮かんだ星空に目を向けながら、

 「なんかさ、人間の時間ってせせこましいよねぇ。」

と呟いた。

 「刻まれた時間だからかな。人間の時間は。」

 私がそう応じると、揺らめく炎が映る栞の瞳が私を見据えた。

 「今わかった。だから耀に誘われたとき、ここに来ようって思ったんだ。旅行のために有給を取るなんて、普段の私なら絶対しないのに、行きたいってすごく強く思ったんだよね。行かなきゃって。」

 「ちょうどいいタイミングだったんだね。」

 「仕事的にはタイミングではなかったんだよ。忙しいのに無理して有給取ったんだから。でも、私的にはいいタイミングだったんだと思う。」

 栞は背もたれから体を起こすとカップに顔を近づけ、すぅっと深く息を吸った。

 「ああ、なんていい香り!」

 感嘆の声を上げる。

 「刻まれた時間。それが問題だったんだなぁ。」

 栞はそう呟くと、はちみつ入りのカモミールティーを静かに飲んだ。打ち寄せる波。はぜる焚火。不規則なアンサンブルが耳に心地よい。
 再び背もたれに体をあずけると、栞はゆっくりと口を開いた。

 「星空の時間も刻まれているのかな。」

 「人間が刻んだ時間はあるんじゃない?」

 「人間が刻んだ時間?」

 「うん。この星空も、この海も、私たち人間にしてもね、本来は刻まれた時間に生まれて、刻まれた時間に存在しているわけではないと思うの。刻まれた時間って、人間が編み出したというか、導き出したというか、人間にとっての便宜的なものだと思う。」

 「都合上ってこと?」

 「そう。共通した時間がないと、やりとりするのに何かと不便でしょ。だから、世界中が同じ時間の刻みを共有している。
 でもね、そもそも時間って存在するのかな。時間は、この世界の仕組みを人間が理解して活用するための、ひとつのツールでしかないように思うんだよね。」

 「この世界の仕組みねぇ。宇宙の時間も?」

 栞はよくわからないという風に首を傾けた。

 「うん。人間が関わる限り、そこには刻まれた時間があるんじゃないかな。宇宙ロケットにしたって刻まれた時間がなければ、きっと飛ばせないよね。
 宇宙に限らず、人間社会に必要なさまざまな技術は、刻まれた時間というツールを使って生み出されているんだろうから、道具としてはね、刻まれた時間は必要なんだろうってわかるの。
 でもね、私はそもそも時間はないと思っているから、そこに自分の人生の、一歩一歩の歩みっていうのかな、それを結びつけたいとは思わないんだよね。」

 「時間はない、ねぇ。よくわかんないなぁ。」

 栞は唇を突き出す。

 「刻まない時間っていったらわかるかなぁ。大きくたゆたうような時間らしきものはあると思うんだよね。でも、それは人間が考える、刻まれた時間とは別物っていうか。」

 栞は合点がいったというように頷いた。

 「それならなんとなくわかる気がする。その時々によって、感じられる時間の長さって違うもんね。私の焦燥に駆られた時間の尺度と、この星空が持つ時間の尺度が同じだなんて思えないしねぇ。大きくたゆたう時間かぁ。いいなぁ。私もゆったりとたゆたいたいよ。」

 栞は憧れるような目つきで星空を見上げ、ため息をついた。

 「刻まれた時間から自分を守るって、大切なことだよね。」

 私がぼそっと小さく呟くと、栞が

 「自分を守る?」

と身を乗り出してきた。

 「うん。刻まれた時間に身を任せていると、自分が自分じゃなくなっていく気がしてこない? もちろん、刻まれた時間に合わせなければならないこともあるけれど、それだけに始終しているとね。」

 栞は大きく目を見開くと、こくりと深く頷き、早口で喋り始めた。

 「まさに! まさにそれよ、それ。今の私がそうなんだと思う。きっとそう。毎日刻まれた時間を気にしながら過ごして、私の人生なんなんだろうって。こんな風によくわからないまま私の人生終わっちゃうのかな、なんて思ったりして。
 自分のことが全然わからないんだよね。自分が何をしたくて、どう生きたいのかとか。ほんと全然わからなくて。こうして立ち尽くしている間にも時間だけがどんどん過ぎていって、焦燥感だけが募って。」

 ここまで言い終えると栞は一息ついた。それから、はちみつ入りのカモミールティーを一口飲み深呼吸すると、すがるような目つきで私に問いかけてきた。

 「ねぇ、耀は自分ってなんだと思う? 耀はいつもブレないっていうか、芯がしっかりしているよね。それって、自分のことがよくわかっているからだよね。 ねぇ、自分のことがよくわかるってどんな感じ?」

 私はうーんと唸った。私だって、自分のことがよくわかっているわけではない。

 「目に見えるものではないから、言葉にするのは難しいなぁ。」

 「うん。それはそうだよ。だからね、その目には見えない自分のことがわかるって、どんな感覚なのかが知りたいの。」

 栞は自分の椅子をずずずーっと引きずり私の椅子に近づけると、乗り出していた身をさらに乗り出してきた。私は前のめりに興奮する栞を宥めるように、ゆったりとした口調で言葉を選びながら話を進める。

 「わかるっていうのとは違うと思うの。わかるって感覚は、客観的でしょう? そういう客観的な感覚ではないんだよね。もっと、自分そのものって感覚かなぁ。
 栞が自分のことを知りたいと思うのって、すごく客観的な視点だよね。自分を外側から眺めようとしているっていうか。でも、そもそもね、自分を外側に置いて、そこから自分を眺めるなんて、できないと思うんだよね。」

 「わかりたいと思うことが、そもそも無理ってこと?」

 「うん。わかろうとすると言語化しちゃうでしょ。言語化するっていうのは、目に見えないものを見えるものにするってことだと思うのね。
 そもそも、見えないものを言語化するって、無理があるように思わない? 抜け落ちがあるっていうのかなぁ。無理やり言語の型にはめてしまうわけだから、無理が生じないわけないよね。」

 「耀が言わんとしていることはわかる。すごくわかるんだけど、それでも、私は自分を感じるってどういう感覚なのかわからないし、耀みたいに自分を感じてみたいよ。」

 「たとえば、どういう人生を歩みたいんだろうって疑問だけれど、人生って人間関係とか社会の仕組みとか、自分以外のさまざまな事柄と複雑に絡み合ったものでしょう?
 そういうもろもろのフィルターを通した時点で、それは自分という本質のずっと外側にある、見える事柄を見ていることにしかならないから、見えない自分を感じることはできないんだよね。
 自分という本質は、もっともっと根源的なもので、周りの時間の流れから自分を切り離して、自分の時間だけに身を置かないと、感じ取れないものなんだと思う。
 他の人の時間や社会の時間の中にいても、そこから自分の時間の流れを見出すことはできないし、自分そのものを感じることはできないんじゃないかな。
 言葉を代えて言うなら、他者のフィルターを通して自分を見ているうちは、客観的な感覚から抜け出せなくて、自分そのものという感覚には至れないってことかなぁ。」

 「確かにそうかもしれない。でも、人生ってそういうもんじゃない? 自分1人で生きてるわけじゃないんだし、自分はどんな風に生きたいのかって疑問は、どうしたって社会と切り離しては考えられないよ。」

 「うん。だから、自分を感じるっていうのは感覚的なもので、どういう人生を生きたいかという思考的なものじゃないんだよね。」

 「あ、そっか。思考的なものじゃない。自分を感じたいって言いながら、感じるより先に考えちゃうんだな、私は。」

 「そうそう。みんなそうだよ。私もそう。だから、こうして時々グランピングに来て、何も考えないでぼうっとして、ゆったりたゆたう自分だけの時間に心地よく身を浸すってわけ。
 自分を感じるぞって客観的に自分を捉えようとするんじゃなくて、自分そのものの感覚を鋭敏に研ぎ澄ますっていうのかな。
 自分の感覚を鋭敏にしておくとね、世間の刻まれた時間に身を置いていても自分でいられるの。自分の感覚で物事が判断できるっていうのかな。」

 栞は乗り出していた身を引き、椅子の背もたれにもたれかかった。

 「そっか。自分を感じようって思った時点で、それは客観的な思考でしかなくなるんだね。自分そのものの感覚を研ぎ澄ます。私自身を研ぎ澄ます。
 言葉にはできないけれど、なんだかわかってきた気がする。じわりじわりね。ああそういうことだったのかぁって。
 ねぇ。しばらく目を閉じて喋らないでいてもいいかな?」

 「もちろん。これから寝るまで別行動にしようよ。私もぼうっと気ままに過ごすことにする。」

 私はハーブティーの入ったカップを持ち、その場を静かに離れた。カモミールの香りと潮の香り、星の瞬きと打ち寄せる波に魂の波動が共鳴する。身体のあらゆる組織が振動し、物質世界からの解放を感じた私は恍惚とした。

次章【失明】につづく↓

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