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clichéだけど幸せなこと

まだ21歳のひよっこ医学生である私にも、これまで生きてきた中で人生のバイブルと呼べるものがいくつかある。大学入学後に教養科目で出会った親友から借りたマルクスアウレリウスの『自省録』や、大学二年の春休みに古本屋で出会ったセネカの『人生の短さについて』だ。残念ながらラッセルの『幸福論』はそこには含まれていない(笑)。まぁそれは置いておいて...

これまでも自分の人生を蔑ろにしてきたつもりはなかった、だがしかし、私は自分の人生が思っていたよりも短いということを初めて知ったのだ。とはいえ、そのことにより寧ろ今までよりも人生に希望を見出したのだから、今この年齢でそのことに気付けたことを幸せに思う。大げさでなく、今気づいていなかったらと恐ろしくなるくらい、今を見つめることの大切さを認識する契機となった。人は、幸せに生きようとすれば、いくらでも幸せになれる。今を生きよう。そう思えた。
今を幸せに生きないことほど勿体ないことはないと知った。
そんなタイミングで、その認識にさらに拍車をかけたのは、インドの彼と遠距離恋愛をするという予想外の状況に直面したことだ。
彼に出会えたことで、私は何事も考えすぎる性質にほんの少しの無邪気さを加えることができた。考えすぎるところは直らないし、直したいとも思わない。子供の頃に抱いていた無邪気な願いを許せるような心のスペースを確保できるようになったというべきか。
何にせよ、私の人生を私の好きなように生きようと純粋に思えるようになったのは、彼に愛され、彼の生き方に触れたからだと思う。
いつからか私は、自分の意見を臆せず発するようになったし、こうしたほうが良いと思ったら試してみるようになったし、とにかく自分を生きたいと常に熱望あるいは切望して今を生きている。その望みは必ず行為にする。そういう生き方を身につけることができるまで20年もかかった。自分だけでは勿論無理だった。色々な人と出会い、色々な出来事を経験し、21歳の今の私にとってベストな生き方だと思えるような今を生きることができている。幸せこの上ない。

ところで、実はこれまで私は(きっと自分で発言に神経を使うワードがいくつかある人は他にもいるだろうが)知る、という言葉を使うのを好まなかった。それなのに、今回は本文でその言葉を堂々と載せてしまった。これはどういうことかというと、単に考えが変わったのである。それだけのことだ。知る、知っている、知った。知るという言葉は知る人の自由だと知ったのだ(ややこしくはない、はず...いや多分...)。

過ぎ去った日々すなわち過去に縛られた感情がもし一つでもあるなら、今を自由に生きることができない。そう知っていたつもりで、それが全く行為に表れていなかった私は、実質今初めてそれを知ったということだろう。そして、この先やってくる未知のできごとを恐れて今の行為を制限するような感情を一つでも持っているなら、それもまた不幸なことだと思う。

とにかく今。今を楽しく生きる。以前の自分は、今を生きるということを過剰に怖がっていた。だが、思い切って今を生きてみると、これが本当の幸せだと知る。それが全てだ。

今回も、急に書きたくなったので衝動書きというやつだ。
私は文章を書くとき、推敲しない。今表れてきた言葉を、そのまま文字として出力する。よほどの誤字脱字がない限り、直さない。適当な人だと自覚している。適当という言葉は便利で、不便だ。相反する二つの意味を持っているように解釈しているが、もしかしたら私のこの理解さえも間違っているのかもしれない。適当という言葉は嫌いだけど好きな言葉だ。だって、不便だけど便利だから。全く答えになっていないけれど、眠くなったのでまたここらへんで打ち切ろうと思う。

読んでくれてありがとうございます。

ゆらゆら揺れている医学生より

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