力と実力に対する考察 2024/4/14版

初めに

力とは何か?
実力とは何か?
それが最近の私のテーマです。
力には、色々あります。
権力や腕力も尚のこと、能力や力点や圧力、細かくは思考力や体力や精神力という細やかな分類にまであります。
全てのことに言えることですが、結果や事実に対してその意味づけとして言葉が存在するものは人が在れと願いそして、求めてやまない存在です。
それは、現金と同じ側面があります。
紙幣は紙でしかありません。例えば、一万円紙幣。それは紙に過ぎませんが、流通する国では一万個の1円としての価値があります。しかし、流通していない国では、ただの紙切れです。それを親切にも(勿論、善意ではなく利のために)現地で使えるように両替してくれる場所があるだけで、元来一万円紙幣の価値は一笑に付されても、反論ができない幻想なのです。
端的に言うと、自分や他人が無いと言えば無くなってしまう程度の幻想に過ぎません。
この考え方は現在世の中で出回っている二元論の外にある考え方ですから、読者の皆さまの多くは馴染みがないと思います。
用意された選択肢やYESとNoの選択しか視野にない世界のことです。

しかし、そういう側面を持ちながらも力は事実に基づいているため、現金とは違う面があります。
事実に基づいている以上、人により力のどの言葉にどの事実を当てはめて分類するのかは異なりますが、存在するものは自分や他人が無いと言った所で在るのです。
その事実に照応するものが言葉として表現されます。
少しややこしいのが、実を伴っていない力も存在することです。例えば、私には権力がある、と私が自称したとします。言葉の上では権力があるように表現されていますが、実際はない訳で単なる幻想を自分に見ているわけです。それでも、他人にはそれが嘘なのか実なのか判断するまでは宙に浮いており、「私には権力がある」という言葉は存在します。
しかし、今は無くともどこかで権力を握ることがあるかもしれません。身近には、職場や学校のクラスで権力を得るかもしれません。そういう不確定要素があります。このように力が言葉に表現されることで照応という概念が状況に変化与えます。これが願いであり、幻想の側面です。

これは力を言葉で表現する場合に事実に依存するから起こることです。
現金は事実が先になく、決済に使用できるという結果が先に来ているのでその実体はなく幻なのです。

さて、力の所在について話を進めてきました。実体がありながらも、照応される言葉だけでも状況に変化を与えるものである、という説明をしておりました。
力の本質について述べた所で仕切り直しとして、次に実力について私の仮説を立てます。
力とは選択肢そのものであり、実力とは力を持って事実を創りそれと対峙することです。
端的には、実力は選択を行い、その結果に対峙し対処することです。
別の言葉で言うと、ベクトルと動力を持つもの全ての現象を正確に認識する、です。
実力がある場合はこの対処が上手いということで、ない場合は対処ができないあるいは下手なのです。
私の今後の力と実力のに関する記事ではこの仮説を元に話を進めていきたいと思っています。

①選択への対峙

仮説の「実力は選択を行い、その結果に対峙し対処すること」を本格的に話す前にまず選択への対峙について話します。

私が力という題材を扱う上で参考にしている本があります。
『ようこそ実力主義の教室へ』(著・衣笠彰梧)です。
2年生編の中頃で非常に尊敬に値するように主人公が決断を行う話があります。ネタバレになりますので、詳細は書きませんが、その話を読んで私の実体験で回顧した出来事がありましたので、ここに書きます。
2つあります。

1つ目 父について


私の父は亭主関白な人でその上で家に寄り付かず、自身のご実家のために生きているような人でした。
幼少の頃はいないのが普通で、遊んでもらおうと考える候補には上がらない人でした。いつも結婚前と変わらずに会社の俱楽部活動のために休日を過ごし、学校行事は母に任せきりで旅費が大変なくらい遠い実家に通い詰めていました。

しかし、私は特に彼のことを責めるつもりも擁護するつもりもありませんでした。
それは、母も愛情というものに不得手で、私は愛情をむけられたり向き合ったりすることが愛なのだと理解しない子どもだったからです。寂しさは感じながらも、それをどうすれば解消できるのか、全く想像もつきませんでした。


余談ですが、そういうものは蓄積していくものです。これは直感ですが、私の冷え性や寒がりはそういう部分を体が私に伝えるために表現したものなのではないか、と考えています。最近は、自己愛で自身を満たせることを心身ともに理解したので回復傾向にあるので、余計にそう確信しています。


蛇足を失礼しましたが何がいいたいかと言うと私は彼を悪いとは思っていない、ということです。
父は選択をしただけ、なのですから。
自分の家庭よりも、自身のご実家を選択したのです。
お金はちゃんと入れてくれて、大学まで通わせてもらい一応不自由なく生きて来られた私は正直、文句はないです。しかしこれって実質、離婚した後で親権のない実子にお金だけは用意している状況と変わらないのですよね。
ただ、選択した、というこの点に関しては私は彼を一人の人間として擁護します。通常、そんな非情な選択はできません。無意識であれ、強迫観念があった状況であれ、もっと中途半端な保留状態になるのが常人の行いだと考えます。「よくぞ、選択とした」と一人の人として尊重しましょう。

しかし、選択という事実にはには結果が伴います。
詳細は延べませんが、現在では父がその結果を受け止め切れていないように見えます。母もまた、そのように見受けられました。
その点には失笑しております。
物心ついてからは、私から見ても火を見るよりも明らかでした。
しかし、人は不都合な事実を直視できないことが多いです。
なので、予想通りと言えます。せめて、私は父に失望したかった、と思います。

この話は実行力とでも名付けられるでしょう。
もしくは、分析力状況把握能力でしょうか。
欠けていたものは想像力であり、奇しくも残念なのは、決断なき実行力であった点です。
自分たちのことでいっぱいいっぱいで放置された身として、それらを反面教師として、実子としては見守るしかないと考えます。

2つ目 私の恋愛の記憶

私には、5年近く付き合った恋人がいました。
彼女との出会いと縁には感謝しかありません。
願はくはお互いにもう少し成長してから出会いたかった、というくらいです。ただ、それは過ぎた望みで、その場合は今日の私はなかったでしょう。壊れて、擦り減って無くなってしまう私を繋ぎとめてくれた人です。
物理的にも精神的にも精神生命体的にもです。

彼女と別れたのは、私との出会いで彼女が悪い方向へ変わってしまったからでした。
出会う前は危ういながらもきちんと生活ができる人でしたが、私は世話好きで甘やかすのが好きなために、彼女は堕落した生活を送るようになってしまいました。そういうことは精神にも影響します。次第に、自活できなくなっていきました。

一方で、私は彼女と出会えて恋人になってから、一手に家事を引き受けて、夜の世話もきちんとやれていたと思います。体の相性が良かったこともありましたが、セックスでは私自身がイケないことが常態かしつつも、それでも精神的には充足感を覚えていました。幸せってこういうことを言うんだなって実感する日々でした。ただ、「今は一生分の幸せを味わっている」という直感もありました。正直体力的には、学校も通いつつ家事をこなして夜伽も行うのは相当しんどくて体調は徐々に悪化していましたけど、それでも充足以外のなにものでもない奉仕の日々でした。

しかし、過ぎたるは猶及ばざるが如し、という言葉もある通り、この世には過不足なく与え合うことが対等な対人関係であり、適切な愛情表現です。
私は彼女に私へ依存させるような行いをしながらも、対等な一人の人でいてほしかったのです。彼女に向上し合えるような関係性を望んでいることを自覚しました。
自覚したことで、矛盾した行いだったことを悟り軌道修正を試みました。

まず、家賃の折半を試みました。
これは成功。
次に、家事の分担を試みました。
これは失敗しました。
その上、彼女は意地になって私だけが家事をしていることを認めてくれませんでした。

正直、どんな彼女でも愛していましたし、私が家事を今まで通り引き受けて彼女は自分でやっている幻想を見てもらっていても良かったです。
無益な意地と愚かな認識能力ですが、どんな状態であっても愛していられました。そのくらいでないと、5年も恋人のために奉仕することなんて無理だと考えます。だから、別れたくなかったです。
あの時、そういうものと割り切って、私が居ないと生きていけない人に完全に堕としても、それでも愛していける自信がありました。
本懐を言えば、そうしたかった。一緒にいられればなんでもよかった、とも思えます。

でも、それは私だけを考えた場合です。
愛しているなら、手放さないといけません。
愛しているから、離別する必要があります。
そうすることで彼女は人として前進できます。
私は彼女を踏み台にしたいわけじゃない。
一番近い隣人として生きたいのですから。

ここからは彼女のことばかり言うのはフェアではないので告白しますが、私は相当なサディストです。自称サディストほど、(笑)えるものはないですが、敢えていいます。
甘やかしてどうしようもないくらいダメにしてから、半ば強制的に好みに染めるタイプです。たぶん、あの時彼女を手放していなかったら、私の言葉一つでなんでもしてくれる仔に改造していたと思います。冗談じゃなく、プレイ中に命乞いか死を懇願させるようなこともあり得たと思います(こんな話をしているとつい、嘆息が出ます)。そういう未来がありありと、かなりの確度で想像できた私は、それが事実になるのが怖いと思いました。
だって、やろうと思ったら簡単です。
彼女は生活から性生活にかけて依存度がほとんど引き返せない段階になっていますから、もう少し堕としてから、懇願すれば私からは手を差し伸べられる程度に壊せばいいだけなのですから。その後、彼女が心が折った上できちんと懇願ができたら、優しく抱きしめてあげればいいのです。
『ようこそ実力主義の教室へ』(著・衣笠彰梧)の綾小路くんと似た方法論ですね。壊して心を折ってから救いの手を差し伸べる。
彼がクラスメイトをクラスに影響を与えるための武器としてのに仕立て上げるために行った方法です。彼を擁護するなら、必要性があったから行ったということと結果に対する覚悟と自覚、その上で事後の状況への責任能力あっての行いでした。

さて、話を戻します。
私は彼女に人として前進してもらうために手放すことを決めました。
彼女は私に依存していましたので、私から別れを切り出すと彼女の傷心が長引く恐れがありました。なので、私はじりじりと突き放していき、自然と彼女が見当違いな解決を繰り返す中、機が音連れて彼女に別れを切り出させました。

最近思い出すと、別れを切り出させる直前に一度話し合いの場を持っても良かったのかもしれません。後悔はないです。私は彼女に選択をさせる選択をした。けど、それは反省点だったと思っています。私はもっと人を信じるべきだったと思います。そして、自分を信じるべきだったと思います(性生活の安全性は保証できませんが)。彼女が私のパートナーとして前進できる可能性をもっと模索するべきでした。

離別の後のお互いの結果はわかりません。
離別してから会っていないからです。
片方の結果である、私のことのみ書きます。
私は彼女と別れてから誰かを彼女と同等かそれ以上に愛せないでいました。
ただ、特定の個人に対しては、それでもすべての生き物に対してはそれ以上の愛情を抱きました。博愛と言っていいのかわかりませんが、等しく愛しています。これは精神的な部分です。
身体的には、誰かと一つになりたい衝動があります。春ですし、繁殖期なので動物としては自然なのですが。
その二律背反は矛盾だと思っていましたが、今では矛盾ではないと思い直しています。
一緒に居たくて一緒にいるなら、一人と一人でいるのではなくて一つになりたい。けど肉体の接触は無くても、お話しして心が通じ合うことも一つになる方法の一つです。体で繋がることはわかりやすいですが、見えない方法で繋がることの方が重いです。どっちが先でもいいと思いますけど。
つまり、精神的な状態は私の心構えの話で、身体的な感覚は方法の話だったのです。社会的な常識には反しますが、私という個体の、私の意思を、私が否定することはありません。もっと言うと、近代になるまでの常識では主流の考え方ですらあると思っています。

そういった私に残った結果と向き合い、生活する上で得たものがあります。
それは、独りでも生きる、という安寧です。具体的には自己管理能力であり、自身への認識能力と包容力であり、想像力と意思を持ち貫く力です。責任と権利の自覚覚悟を示すことの重要さ腹を割って話すことの大切さ自身と他人を信頼する懐
それらを持って、私は本当の意味で自分の人生に命を賭けられる自由を得ました。その上で、機会があればパートナーを得たいと考えられるような自己肯定感を得ました。
そこにたどり着くまでには、私は自分を徹底的に破壊しました。これで人生が終わるならそれも楽でいいと、割り切ることができました。そこから這い上がってこれたのは、宿命的な運と驚異的な精神力と破壊の過程で手を差し伸べてくれなかった友人たちの非情さにあります。半端な破壊じゃダメです。無意識に、私は私を見捨ててくれる人選を行ってしまったのだと思います。友人の実直さに感謝しますが、距離を取る機会を得た形になりました。
ここまでが、私の選択の実体験の2つ目です。

まとめ

自身の選択の結果という事実へ対峙して、わかることは赤裸々な現状です。それは目を背けていてもいずれ現れます。
逃げるか今対峙するかを選択する必要があります。
対峙すれば、あなたの実力が試されます。
その対峙した結果を粛々と受け止めることで得たものと失ったものが判明します。人間社会ではその繰り返しは半強制的に起こります。何の選択もしなくてもです。ですから、できる限り悔いのない選択をすることと悔いのない選択を見極める洞察力をまずは目指すことをお勧めします。その勧めの上で選択を放棄したいなら、どんな結果になっても対処しきる実力を身に着けるか、覚悟をもって何かを諦めてください。
手加減は強者の特権」なのです。『バッカーノ』(著・成田良悟)という小説でビーノという登場人物がそのようなことを言っていますが、本当にその通りです。
手を抜くことは真に実力をつけてから行わないと後の後悔になります。それまでは歯を食いしばって精進するか、選択の自由を諦める覚悟を持つかになります。第三の選択として、誰かにちゃんと腹を割って頼ってください。その時は助けてもらって、実力を高める時間を得ましょう。
皆さまのご健闘をお祈りします。
私も日々精進する所存です。

ここまで読んでいただきありがとうございます。
本日の執筆はここまでとします。
次回の更新はここから加筆していきます。 2024/4/14 Air



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?