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『民芸を深読み&応用しすぎじゃないでしょうか?』問題

写真は私が暮らす熊本県荒尾市、夏の有明海です。
美しいものは理屈じゃないんだと思います。

‐‐‐‐

まず初めにお詫び申し上げます。

民芸について、
深く考察しておられる方々への提言です。

提言というより、ちょっと疑問を持っているという表現が正しいかもしれません。



「民芸理論を深読みしたり
他分野へ応用したりしすぎじゃないでしょうか…?」



若くて知識人でもない、
焼き物の技術も未熟である私が言うのは大変おこがましいとは思いますが、
どうしても最近の民芸研究に疑問を持っていまして…。

失礼を承知で文章を書いております。
すみません<(_ _)>




深読みで離れる本質


『本質を理解しようとすること』
『難しく考えて深読みすること』
似ているようで真逆のことをしていると思うのです。


深読みに関する例え話として、私自身の過去の記事を引用します。

私が子供の頃に遊んでいた
「ソフビのウルトラマン」
とかが、仮にそのままの形で1万年後に発見されたら、

1万年後の考古学者にメチャクチャ深読みされるだろうな~と(^^)




~今から1万年後~

「この像は1万年前の古代人が信仰した神の姿である。
神のデザインは『人と人ならざる者』の中間の姿で表現されている。

数多く作るためにソフトビニールという素材で制作されている。
これは各家庭ごとにこの像を安置し、広く信仰されていたことの証拠である。

当時の気象状況は地質調査の結果、自然災害が多発したことが推定されている。

1万年前の古代人は荒ぶる自然を、この神が鎮めてくれることを願い祈っていた。」




みたいな学説が主流になるんじゃないかなと想像して、一人で「フフっ」てなりました(^^)

土偶とノリ


深く考察して本当の姿から離れては、
本末転倒ではないでしょうか?


民芸理論を深読み&応用する意味は?



深く考察したり、
他分野(デジタル・工業製品・社会構造etc…)へ応用する大前提として



『理論として矛盾や破綻が無く、きちんと成立している』
ということが証明されていない理論を、深読みしたり応用したりする意味はどれほどあるのでしょうか…?

自身の理論の、発想の起点として利用する分には良いと思いますが。




民芸について言えば

『民芸理論に関する条件を守る事』と
柳氏にとって『美しい物に見える事 ・ 美しい物を作る事』が
イコールの関係でなければ理論として成立していません。


そして、どうやら上記の二つはイコールじゃないんです。



再び私の過去の記事から引用します。

‐‐‐‐‐

民芸の9ヵ条を守ること柳氏の審美眼にかなう物を作ること

必ずしもイコールではないと思っています。

柳の説く「民藝品」とは具体的にいかなるものであるのか。柳は、そこに見られる特性を次のように説明している。

1.実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。

2.無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。

3.複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。

4.廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。

5.労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。

6.地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。

7.分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。

8.伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。

9.他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているものである。

日本民藝協会ホームページ


実際に

民芸品の特性を全て満たしたとしても、
柳氏の審美眼にかなわないものはコレクションから外されました。




さらに
主な活動メンバーであった濱田庄司氏・河井寛次郎氏は民芸派ではあるものの、無名の職人ではなく
「個人作家」として活躍されました。

お2人は作品そのものには銘を入れていませんが、基本的に 作品に付属する木箱には署名を施され、個展で新作を発表されました。

器の裏に入っていた銘が、木箱の裏や個展会場の看板へ移動したとも言えます。

お2人が多用された技法は、その土地に古くから伝わる伝統的なものではなく、
あらゆる産地の技法をミックスしたり、独自のアレンジを加えたものでした。

作品価格は当時から相当に高く
とても窯場周辺の民衆が、台所用品として普段使いするような価格設定ではありません

具体的に書きますと、安価な土瓶が三銭くらいであった時代に、
濱田氏が自作の土瓶を、その300倍~500倍の価格で展示販売されていたことがあるようです。

作品は実用品ばかりではなく、
最初から飾ることを想定された大作複雑な形・色彩の花器などもありました。

河井氏に関しては、過去に例のない独創的なオブジェも積極的に制作されています。





柳氏は、お2人の作品に『美しさ』を見出し、絶賛していました。

この事実は
柳氏の美意識と民芸理論が、必ずしもイコールではないということを示しているのではないでしょうか?


※河井氏へは度々「やりすぎるな」と注意しておられたようですが。


これ、お2人の作品を悪く言っているわけじゃないんです。

実際に、実物を見ると素朴さや力強さに感心しますし。



『民芸の条件に忠実であること』と
『柳氏が美しいと感じること』が、

実は そこまで関係がないんじゃないかな?


ということを言いたいんです。

‐‐‐‐‐


【1+1=2】
この式が様々な問題に応用できるのは、この式が正しいことが証明されているからです。

【1+1=3】
この式を、様々な問題に応用する意味ってありますでしょうか?



民芸はカウンターカルチャー?


この主張にも、私は疑問があります。

柳氏が世の中の流れに疑問を感じる。

世の中へ反発し、自身の主張を行うために、

民芸理論を構築する。


という流れなら、その主張も一理あると思うんですが…。




柳氏は
最初からカウンターカルチャーを作りたかったわけでは無くて、

自身が美しいと思う物について考えてたり言葉にしていく過程で
自然と民芸理論が出来上がる。
理論として成立しているかは置いておきます。

その民芸理論が結果的に、
機械化を進める世の中と違うものになっていた。

民芸の話をあちらこちらでする流れの中で、
機械化に警鐘を鳴らすことに繋がった。


後の時代の人々には世の中に反抗したように見え、
カウンターカルチャーだと勝手に思われている。

という流れが、正確なんじゃないかと思うんですよね。


※柳氏が非常に強い口調で、批判的な文章を書かれていたこと自体は事実ですが。


柳氏の審美眼=柳氏の好み



柳氏は二つの物事を並べて
『正・誤』『美・醜』『健康・病気』
という強い言葉で、その二つの物事を対比させてしまいました。


柳氏がこのように強い表現を使ってしまったことで、
後の時代の人々に
「美しさには、一目で分かる不変の法則があるんだ!」
という印象を持たせてしまった
ことは否めません。



しかし、
民芸理論をすべて満たしていて柳氏の審美眼にかなわなかった品物

高価で実用的ではないが柳氏の審美眼にかなった作品

二つが存在しているんです。


次の章に繋がる内容ですが、
それだけ、
美意識というものを理論(言葉)で表現することは難しいんだと思います。



これは理論ではなく、柳宗悦氏の個人的な好みである
と理解した方が自然であるように感じています。



そして、柳氏は美しいものと醜いものを一瞬で見分ける審美眼を持っていました。

なぜ、一瞬で見分けることができるのか?



それは
『柳氏本人』『好み』
だからです。




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誤解の無いように書きますが、
私は柳氏の審美眼を、歴史的に見ても素晴らしいものであると思っています。

審美眼そのものについて悪く言いたいわけでは無くて、
「審美眼は理論で説明できないのでは?」という疑問を持っているんです。



なぜ民芸は深読みされる?




深読みされやすい原因を一言で言いますと
『柳氏が美意識を整理して語りすぎたから』
だと思っています。



美意識について語ること自体は良いのですが、
美意識という、個人の主観に関する複雑な心の動きを
分かりやすく体系的にまとめすぎて、理論として受け取れる形に整理をしすぎたのです。




「美しい海」

この言葉から連想される景色は十人十色でしょう?
カリブ? タヒチ? シチリア? 沖縄? オホーツク?



「もうすこしで
ちっこう(築港)の
さきにはいる
お日さん

がた(干潟)にひかって
まばゆい
まばゆい」

ー海達公子


私の住む市にある有明海だって美しいですよ。




柳氏にその意図は無かったはずですが、結果的に後の時代の人々へ、
『個人の美意識』という非常に主観的で複雑な心の動きについて、
すべてを法則や計算式のようなもので説明できるという誤解を与えてしまった
のではないでしょうか?



これには良い面、悪い面の二つがあります。



良い面は何といっても
『民芸という思想・柳氏が思い描く理想の社会像』
が広く一般に広まったことです。

それまで身近な工芸品を何とも思わなかった方々へ、
美の気付きを与えてくださったのだと感謝しております。



そして悪い面は
『理論・思想という面が強すぎて、後の時代の人々が頭だけで考えるようになった』
ことです。

本(文章)しか読んでいない方も多いように感じます。




本来、柳氏が言いたかったことは






「みんな見向きもしてないけど、身近なところにも美しさがあるんだよ。」
という、もっと単純な話に思えてなりません。




柳氏は理論(理屈)の話をしたくて民芸理論を語ったのではなく、
柳氏の美意識を知ってほしくて民芸理論を語ったんじゃないでしょうか?



さいごに




もともと私どもは、
民衆的作品だから美しい等と、


初めから考えを先に立てて品物を見たのではない。



ただじかに見て美しいと思ったものが、
今までの価値標準といたく違うので、

後から振り返ってみて、
それが多く民衆的な性質を持つ実用品なのに気づき、


総称する名がないので、


仮に「民藝」といったまでである。


ー 柳宗悦





2023年7月11日(火) 西川智成

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