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美意識を伝える事 ≠ 直接教えること


写真は父である小代焼窯元:西川講生です。

今回は伝統や文化、そして『美意識』はどのように伝わるのかについて、
現時点での私、西川智成の考えを書いていきます。


また、最初に断っておきますが、
この記事は私以外の考え方を否定するものではありません。

私は常々、人生とはそれぞれの人がそれぞれの信念に従って、各自が思うがままに、勝手に生きていけば良いだけのことだと思っています。



↓私の基本的な思考回路について↓





はじめに


伝統や文化を伝える方法として、まず思い浮かぶのは
・師匠に弟子入り
・専門学校で学ぶ

の2通りではないでしょうか?

確かに、手先の技術を覚える為に上記の2つは非常に有効な手段であるとは思います。

しかし同時に、伝統・文化の その先にある
『美意識』を伝える手段としては物足りないように感じています。


先生や先輩は長年技術を磨いていただけあって、たしかに上手いです。

しかし、ただ単に「手先の技術が上手いだけ」で、
「本当に美しい物を作れるかどうか」と経験年数は、殆ど無関係であると感じる場面に多々遭遇します。


ちなみに『美意識』というものは法則があったり、体系立てて説明できるものではないので、
この記事の中においては『美意識』=『私個人が美しいと思うかどうか』という条件設定をした上で、先に進みますね。




桃山陶芸


安土桃山時代は茶の湯の大流行に伴い、日本の陶芸文化が花開いた時代です。

それ以前は種壺なんかを茶道具として見たてることは行われていましたが、
『最初から茶道の為に作られた多種多様な陶磁器』が歴史上初めて登場し、
その様子はまるで、一斉に野山に咲き乱れる花々のようでした。


この時期に初めて釉薬(鉛釉や自然降灰釉ではなく、高温で焼成するために調合された釉薬)が登場し、
唐津焼や志野焼では「器に絵を描く」という大革命が起きました。


志野焼、瀬戸黒、黄瀬戸、織部焼、楽焼、唐津焼、萩焼、伊賀焼、備前焼などなど、多数の茶陶の名品が数十年間という短い期間に次々と生み出されました。


しかし、上記の様式は江戸~明治~大正と時代が移り変わる中で、作風を大きく変化させてゆきます。

桃山陶芸の伊賀水指『破袋』に代表されるような、
生命力・造形力・圧倒的迫力は、後の時代では失われてしまったのです。



伊賀水指 『破袋』



そして安土桃山から数百年の時が流れて昭和の時代になり、桃山陶芸が再評価されることとなります。

加藤唐九郎氏
川喜田半泥子氏
・荒川豊蔵氏
・中里無庵氏
・三輪休雪氏
・金重陶陽氏

などなど、多くの陶芸家が桃山陶芸の美しさに憧れ、それを自分のものにするべく大変な努力をされました。

彼らは安土桃山時代の陶工から、直接 手取り足取り技術を教わった訳ではありません。



中には失われた技術もあったため、各々交流をしながらも独学で桃山陶芸の技法・技術を復活させました。



本当に美しく、力を持った名品という物は 数百年の時間を超えてなお、
人々に憧れを抱かせ、夢中にさせる魔力があります。

本当に力を持った美意識というのは、
数百年の時間を隔てても、何度でも復活するのです。



北大路魯山人氏


次は私の敬愛する北大路魯山人氏のケースも見てみましょう。

現代の和食器作家というものは程度の差はあれど、必ず北大路魯山人氏の影響を受けています。


北大路魯山人氏


それまでの一般的な料亭では料理がお膳の上に全て並べられて、複数の料理が同時に出てきていました。
そのため、向付(おかずが入る小鉢のような器)は、お膳の上に他の器と同時に乗る事を前提にサイズが決まっていました。

魯山人氏はフレンチのコース料理のように1品ずつ料理を提供することにより、向付の形をそのままにサイズを一回り大きくしました。
(※もちろん通常サイズの向付も多数制作されておりますし、むしろ小さなサイズの食器も同時に制作されています。)


また、現代では海鮮居酒屋なんかに生簀があって、魚が泳いでいるのが当たり前です。
しかし、魯山人氏は当時としては非常に珍しい鮎の生簀を作り、多大な労力と費用を掛けて、生きた鮎を料亭まで運ばせました。


魯山人氏の器に直接影響を受けた和食器作家はもちろんのこと、
日本料理が1品ずつ盛れるサイズの器を作ったり、海鮮居酒屋に器を卸したりする作り手も、無意識のうちに魯山人氏の影響を受けていると言えます。



魯山人氏の窯場には彼の手足となって働く職人が大勢いました。
魯山人氏は職人にあれこれと細かな指示を出し、最後の一仕上げを自身の手で行っていたとのこと。

しかし、魯山人氏がちょっと手を触れただけで
『上手でキレイな職人仕事』は『美しい芸術品』へと姿を変えたのです。


作り手が大勢いたため他の個人作家との単純比較はできませんが、
年間1万点という超人的ペースで30年以上作陶し、夥しい数の作品を世に残しました。


魯山人氏の死後、大量に残された粘土、釉薬、作りかけの作品は職人たちの退職金代わりに振り分けられました。

しかし、その職人達の中から『第二の北大路魯山人』は生まれなかったのです。

魯山人氏と全く同じ土を使い、同じ釉薬を使い、毎日のように細かな指示を受け、直接その目で魯山人氏の仕事を見ていたにもかかわらず、
その美意識は、当時の職人達に受け継がれませんでした。



魯山人氏から遠く離れた現代の料亭や和食器作家は魯山人氏の影響を大なり小なり受けていて、

当時、魯山人氏から直接指導を受け、魯山人氏と同じ土、同じ釉薬を使っても職人達の中から『第二の魯山人』は生まれませんでした。

これは、直接の指導と美意識を受け継げるかどうかの間には、強い結びつきがないことが分かる好例と言えましょう。



私の結論


自分の美意識を鍛える最初の訓練は美術館で『本物』を直接見ることであると思います。

国宝や重要文化財に指定されるような名品は、数百年の長い間、数千人~数万人の審美眼の篩に掛けられ続けています。

そこには時代を超える、確かな美しさがあるのです。


人から話を聞くだけではなく、直接本物を見ることは自身の美意識を高めるために最も重要なことであると、私は考えています。

私は現在30歳でして、伝統工芸の世界で言えばヒヨッコの半人前もいいところです。

しかし、若いうちから美意識を高めておくことは必ずや40歳、50歳、60歳になった頃に効いてくると確信しています。




そして、私自身が美しい作品を作れる程に腕(技術)を身に着けた時、
私の美意識を後世に残す最も有効な手段は弟子をとる事ではなく、
1点でも多くの作品を作り続けることだと思っています。



私の生涯で1点でも多くの、心が震えるような作品を残すこと。


そうすることで、

私がこの世を去った数百年後数千年後に、
私の美意識を未来の誰かが再評価してくれる可能性を
0.0000000001%でも上げていきたいのです。



2024年5月29日(水) 西川智成

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