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茶の湯の系譜

小代焼中平窯の西川です(^^)

今回は茶の湯、特に「わび・さび」という美意識が大成した頃の様子を俯瞰してみようという試みです。

茶道を知らない人から見れば、茶の湯には取っつきにくい印象があるかもしれませんが、それを少しでも取り除ければと思います。

また、本記事では大まかな流れについて書いていきますので、茶の湯についての深く専門的な内容はお茶人の皆様にお任せいたします。


安土桃山時代~江戸時代前期にかけて、茶の湯の中心人物は

千利休

古田織部

小堀遠州


と移り変わり、その人々の入れ替わりに応じて、茶の湯のトレンドも移り変わっていきました。





千利休(せんの りきゅう)


千利休は言わずと知れた「わび茶」の大成者です。


千利休


利休は堺(大阪)の商人の家に生まれ、10代後半から茶の湯を習い始めました。

また、苦労した時期はあるものの、商人として経済的には成功していたと思われます。

お茶を飲む文化そのものは利休以前から存在したのですが、高価な茶道具だけを尊ぶそれまでの価値観(美意識)を解体し、利休独自の価値観(美意識)によって「わび茶」と呼ばれる茶道の原型を創り上げました。
※「わび茶」の萌芽はすでにありましたが、それを利休が完成させたと言われています。

一般的に、利休の美意識は徹底的に無駄を省いたものとされています。


利休の好んだ茶碗・静かで無駄のない印象


利休の創り上げた茶道の土台は、現代の抹茶文化にも繋がっています。

安土桃山時代、織田信長が茶の湯を意識的に政治利用するようになり、豊臣秀吉の時代になるとさらに本格的な政治利用が見受けられます。


利休は信長・秀吉という二人の天下人に重用され、茶の湯という総合芸術の世界で絶大な存在感を示していました。

茶の湯=総合芸術とは、
茶碗や掛け軸等の単体の物だけを作品と捉えるのではなく、茶会の開かれている空間やそこに流れる時間全体を芸術として認識する考え方のことです。


特に秀吉の時代にはその側近として、利休は政治にも深く関わっていました。

しかし、原因は所説ありますが突如として秀吉の怒りに触れてしまい、切腹を命じられます。

利休亡きあと、茶の湯の中心人物は利休の弟子であり戦国武将でもあった古田織部へと移り変わりました。

因みに細川三斎(忠興)も利休の弟子の1人です。




古田織部(ふるた おりべ)


古田織部は戦国武将であり、千利休から茶の湯を習った茶人でもありました。


古田織部


利休の「習いの無きを極意とせよ。=人と違う事をしなさい。」という教えの通り、全く新しい美意識を打ち立てました。

利休の茶を無駄をそぎ落とした「静の美意識」とするならば、織部の茶は生命力に溢れる「動の美意識」と言えましょう。


織部の好んだ茶碗・形にも絵にも動きのある印象


茶道具の傷や歪みにも意識的に美を見出し、織部の美意識は「破調の美」とも称されます。

一方で「織部は世の宝を損なう人である。無傷の茶道具を割ってから繕って、その傷を面白いなどと言っている。」という批判もあったようです。


伊賀水指・胴体の割れ(傷)を逆に見所とする


利休亡きあとの茶の湯の中心人物として豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は徳川家康に仕えて江戸幕府・2代将軍徳川秀忠の茶の湯指南役に抜擢されました。
※それ以前は武将として織田信長に仕えています。(具体的には細川幽斎の伝令係)

しかし、大坂の陣(徳川家康vs豊臣家)の際、家康から豊臣方に内通していたという疑いを掛けられ、切腹を命じられます。

切腹の際、織部は「かくなるうえは、さしたる申し開きは無し。=この際、特段の言い訳はありません。」と言って亡くなったと伝わります。

織部亡きあと、茶の湯の中心人物は織部に茶の湯を習った小堀遠州へと移ります。




小堀遠州(こぼり えんしゅう)


小堀遠州は織部亡きあと徳川家康に仕え、2代将軍徳川秀忠・3代将軍徳川家光に茶道を指南しました。


小堀遠州


遠州の好みは一般的に「きれいさび」と称され、傷や歪みのない均整の取れた茶道具や広くて明るい茶室を好みました。

茶の湯に和歌・日本庭園・季節感などなど多くの要素を取り込み、織部とは別の意味で「無駄をそぎ落としたわび茶の大成者・利休」と対照的な美意識です。


遠州の好んだ茶碗・均整の取れた綺麗な印象


茶道具に和歌・地名・古典文学に因んだ銘を付け、同じようなデザインのものを分類して茶道具の種類を体系的に把握できるような仕組みや、正式な茶会の流れを考案しました。

遠州の茶の湯を完璧に理解するには様々な文化芸術への造詣を必要とするため、茶道に不慣れな人には敷居の高い印象を与えてしまっているかもしれません。

しかし、遠州がこのように様々な要素を茶の湯に取り入れた意図は、「客が自身の得意な分野から茶の湯や会話に入れるように。」という心遣いから発しています。


茶入・飛鳥川

古今和歌集「世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる」より命名


利休の極限までそぎ落とされた美意識は、茶会の主人と客の間に高レベルな心の交流を必要とします。

一方で遠州は体系的に茶道具を分類したり、多様な芸術要素を取り入れることで茶の湯に「客観性」を与えたと言えましょう。

これは同時に、織部好みの茶道具に見られた「主観性・強い個性」を失ったことも意味しています。




さいごに


いかがでしたでしょうか?

複雑で難解とマイナスに捉えられてしまうこともある茶の湯(茶道)を、可能な限り言葉でお伝えしてみました。

最後に私の個人的な茶の湯観を言いますと、
「主人はお客をおもてなしする事、お客は目一杯おもてなしされること。」
が一番大事なのではないかと思っています。

また、本記事の中で言うと「織部好み」の茶道具に感動することが多いです。
(年を取ったら、私の好みも変化するかもしれませんが。)


ちなみに今回は茶の湯について長々と書きましたが…。

私は過去に表千家流のお茶を暫く習っており、
今ではその多くの作法を忘れてしまい、自己流で点てたお茶を勝手に楽しんでいるといった体たらくです(笑)


仕事の合間に一服


ムチャクチャ流ではありますが、大事なお客様がいらっしゃった時にはお茶を点てますので、お気軽に中平窯へお立ち寄りください(^^)

茶道について、日本について、文化について、思想について、芸術について、楽しくお喋りすることを望んでおります。




2024年8月10日(土) 西川智成

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