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細川家 ~戦国の武士として、知的な文化人として~

小代焼中平窯の西川です(^^)

今回は江戸期に肥後熊本藩を統治した細川家を、
細川幽斎(藤孝)→細川三斎(忠興)→細川忠利の親子3世代を通して見つめてみようという試みです。

いずれも安土桃山時代(戦国時代)~江戸時代という時代の転換点を生きました。



細川家の肥後入国は1632年のことであり、三斎(忠興)&忠利・親子の時代ですが、流れを見やすくするために一世代前の幽斎(藤孝)を出発点としてこの記事を書いていきます。


・細川幽斎(藤孝):1534年~1610年
・細川三斎(忠興):1563年~1646年
・細川忠利:1586年~1641年


細川家は小代焼・高田焼といった熊本県の焼き物の誕生に大きく関わっており、細川家を知ることは熊本県の焼き物を深く理解することの助けとなります。





細川幽斎(藤孝)


細川幽斎(藤孝)は群雄割拠の戦国時代・1534年に現在の京都に生まれます。

室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力しました。

後に足利義昭が織田信長に敵対して京都を追われると、織田信長の方に従って畿内各地で戦い、明智光秀とも深い関係がありました。

織田信長の薦めによって、細川幽斎(藤孝)の息子・三斎(忠興)と明智光秀の娘・ガラシャ(玉)が結婚することになります。

本能寺の変により織田信長が亡くなった後は、剃髪して家督を息子・細川三斎(忠興)に譲りました。

しかし、家督を譲った後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となりました。


大井戸茶碗『筒井筒』に関する逸話も有名です。

豊臣秀吉所持の大井戸茶碗を付き人(小姓)が落として5つに割ってしまい、豊臣秀吉が大いに怒ったものの、その場にいた細川幽斎(藤孝)が『伊勢物語』に因んで

「つつ井筒 いつつにかけし井戸ちゃわん とがをば我に おひにけらしな」

と即興で歌を詠み、豊臣秀吉の怒りが収まったと言います。


大井戸茶碗 『筒井筒』


また、古今伝授を受け継いでおり、近世歌学を大成させた一流の文化人でもありました。

古今伝授とは『古今和歌集』の解釈を師匠から弟子に受け継ぐことであり、細川幽斎(藤孝)は一時期、その正式な継承者を務めていました。



細川三斎(忠興)


戦国武将好きの間では、『細川ガラシャ(玉)の夫』としてのエピソードが一番有名かもしれません。

細川三斎(忠興)は細川幽斎(藤孝)の息子として1563年、京都に生まれます。

父と同じく足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築きました。


武将としては勇猛果敢で知られますが、その勇猛さは短気さや残酷さとも表裏一体であり、義父である明智光秀からは丹波平定の際に「降伏してくる者を無闇に殺してはならない。」と諭されています。

正室・細川ガラシャ(玉)への愛情は深く、その父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも離縁せずに、幽閉して細川ガラシャ(玉)が処分される事を避けています。


天下分け目の関ヶ原の戦いでは、細川三斎(忠興)は徳川家康に加勢し、石田三成の本隊と戦闘で130以上の首を取ったとされます。

敵軍である石田三成側は正室・細川ガラシャ(玉)の直接的な敵であるため、何時にも増して奮闘したのかもしれません。


短気であったとされる忠興であるが、晩年は角が取れて丸くなったとも。

戦国武将として活躍する一方、教養人・茶人としても有名であり、千利休の主だった弟子である『利休七哲』の一人にも数えられています。

千利休が豊臣秀吉の怒りを買って切腹を命じられたとき、千利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、細川三斎(忠興)と古田織部だけであったとされます。


1632年に息子・細川忠利が豊前小倉40万石から肥後熊本54万石の領主として加増・移封されると息子・細川忠利に44万5,000石を残し、自らは八代城に入って9万5,000石を隠居領としました。

この時、細川幽斎(忠興)に従って八代に移った陶工・上野喜蔵とその長男によって高田焼が創始されました。

上記の高田焼と同時期に、陶工・牝小路源七ら親子と陶工・葛城八左衛門が南関へ移り小代焼も始まります。


江戸期の瓶焼窯跡 (南関町)

また、熊本で伝承された茶道の流派の一つである肥後古流(ひごこりゅう)は、千利休の流儀をそのまま伝えていると称されます。



細川忠利


1586年、父・細川三斎(忠興)と母・細川ガラシャ(玉)の間に、細川家の領国であった丹後国で生誕したとされます。

細川忠利の元服直後の1600年9月15日に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。

細川家は徳川家康側に付いて大いに活躍し、丹後18万石から豊前小倉39万石の大大名へと成長しました。

1620年に父から家督を譲られて豊前小倉藩主となります。

1632年、肥後熊本藩の加藤家が改易されたため、豊前小倉から肥後熊本54万石に加増され、新たな統治者として肥後入国を果たします。

細川忠利は熊本藩の初代藩主となり、前述のように父・細川三斎(忠興)は隠居所として八代城に住みました。

1637年の島原の乱にも参戦し武功を挙げますが、1641年に享年55歳で父に先立って亡くなりました。


性格面では短気な父・細川三斎(忠興)とは打って変わって、多方面へ細やかに心遣いをしている様子がうかがえます。

安土桃山時代から江戸時代へと移り変わる新しい時代に、徳川家と父・細川三斎(忠興)との間の調和に苦心しながら、細川家を大名家として保つのに成功しました。


熊本地震からの復興が進む熊本城


また、戦場で戦った記録は父・細川三斎(忠興)と比べると多くありませんが、武芸にはとても熱心で、大名の中では鍋島元茂と並ぶ柳生新陰流の剣士の一人です。

晩年の剣豪・宮本武蔵を肥後熊本へ招き、客人として厚遇したことでも知られ、宮本武蔵はその後『五輪書』を執筆しました。

宮本武蔵は細川忠利死後も肥後熊本に留まり敬われ続け、この地で生涯を閉じました。




2024年7月23日(火) 西川智成

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