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イングランド経験論の確立 (100)

今回は、フランシスベーコンからの流れで、イングランドにおける「経験論」の確立になります。

*フランシスベーコンの回を見逃した方、こちらをどうぞ。↓

ロックとヒューム

フランス哲学者ルネ・デカルト(1596年ー1650年)が提唱した「生得観念」。もともと持っている能力、学習する傾向が脳の中に備わっているとする考え方。これは、「精神」と「身体」が別々に存在するという考えに基づいています。

この考えの背景に、当時、飛躍的に発展した数学や自然学などがあり、だれがどう考えても同じ結論になるという観念=理性が人間にはあり、動物にはない。つまり、人間は動物と違って、生まれ持った「人間の精神」を持っている。


これに、真っ向から反対を唱えたのが、「ジョン・ロック(1632年ー1740年)」。我々の心は、白紙であり、生得観念を有していない、と論じている。

この白紙の状態を「タブラ・ラサ」。

ラテン語で「何も刻まれてない石板」という意味です。あかちゃんの心は、まだ何も外界の印象を受け取っていないので白紙であると。

例えば、「リンゴ」というものを見るのを初めて。赤い皮をむくと白い実がある。食べた。おいしい。名前は「りんご」。あの赤いものは、リンゴと違う形(いちご)。と紙に書き込まれていく。

白紙の状態から、経験をして、成長していく

ということになります。だから、経験や教育で人間は賢くなっていく、ということですね。

ちなみに、同時代に、アイザック・ニュートン(1642年ー1727年)がいます。

彼も観察や実験を通して、「微分積分」「光学」「万有引力の法則」など、驚異の業績の発見および証明しています。

逸話ですが、リンゴが木から落ちる様子を見て、万有引力を証明していきましたね。
この「万有引力の法則」を証明した時、イギリスではペストが大流行。

ロンドンでは、7万人亡くなられています。このペストの流行により、大学の閉鎖となり、故郷のウールスソープと言う田舎町にひきこもります。(今のコロナと同じ状況!)引きこもって、集中して、多くの法則を発見しました。

ちなみにちなみに、ロックは、政治学者であり、「自由主義の父や民主主義の父」と呼ばれています。
人間は経験によって成長していくと考えていますから、人間は多くの経験をしていくべきと思うわけです。それには、自由でなければならない。(当時はかなり制限があったのでしょうね)

こう言っています。「人は全て公平に、生命、健康、自由、財産の諸権利を有する。誰もが自由であり、誰もが他の者の諸権利に関与する権限はない

でも、自由すぎると、収拾がつかないです。社会が混乱してしまいます。そこで、その混乱から守るために「政府」が必要、政府は国民によって承認・設立され、政府によって保護された。


それまで、神に依存しすぎた人間がぐっと一歩前進した感じがしますね。あきらかに、自分たちで成長していこうという道筋が作られました。

この「神に依存しすぎた」というところは、ニーチェの「神は死んだ」でさらに世間に衝撃を与えます。

「現象主義」というのがあります。

これは、経験論主義から来ていまして、経験して意識したことによって、それを認識できる

まだ、「こちら側」の話なので、理解の範囲ではないでしょうか。これは、この先の「知覚の束」でさらに詳しく説明します。

人間は、見たり聞いたり、感じたりして学習します。これを「知覚」と呼んでいます。ヒュームは、この知覚を二つに分けて考えました。

「印象」と「観念」です。


印象とは、これは綺麗だなととか、あれはいい匂いだなというものです。観念は、それらの印象を集めて重ねていって、思い浮かぶものです。

例えば、赤い、堅い、軽い、おいしい、甘いから、これは「りんご」。好きな食べ物と思うわけです。
つまり、白紙の状態から、どんどん五感で感じていることを書き足していって、それを「〇〇」と認識するわけです。

よって、こういうことも言えます。感覚によって得られない物質は、存在しない。とらえようがないということですね。
ですので、ヒュームはこう断言します。

「印象から観念は生まれるが、観念からは印象は生まれない」

 いきなり、観念が存在することはないということです。

経験論のベースがわかってきましたでしょうか。ここの理解をしていただくと、それに対比する「向こう側」の理解ができます。あの世の話ではありません。この世の精神の話です。

*向こう側とこちら側の基本理解はこちらで↓

近代哲学は、このイングランド経験論(こちら側軸)とヨーロッパ大陸合理論(向こう側軸)の切磋琢磨で、発展していることが良くわかります。
ヨーロッパ大陸合理論(向こう側軸)も大変面白く、頭がアハッとするので、今後じっくりゆっくり紹介していきます。

デカルトの有名な言葉、「我思う、ゆえに我あり」つまり、私が意識していることは疑いのない事実である(客観的な他人の感覚でない)。 だから、私は存在している。

わかりますでしょうか?
つまり、こちら側の見える世界で自分を証明しているわけでなく、誰かに証明してもらう(事実じゃないかも)ことでもなく、自分の頭の中(向こう側)だけで、自分を証明したということになります。

さて、戻りまして、「知覚の束」です。
人間(私)は、の知覚の束である、とヒュームは言っている。
どういうことか。

例えば、リビングルームにあるイスは、前の日も今日も明日も、変わらず定位置にあり続けているように見える。
しかし、住人がリビングルームにいなかったり、外出していたりするあいだ、彼はそのイスを決して見てはいない。
ひょっとしたら、目を離している隙に、誰かがイスをこっそり取り替えているかもしれない。
それなのに住人は、そのイスがずっと同一のイスであると思っている。


あるいは、ここに1艘(そう)の船があるとする。
その船は、帆を張る柱や甲板、縄梯子といったさまざまな部品からでき上がっている。
しかし、それらの部品は、古くなったり傷んだりすれば、他の部品に交換される。
そのため、5年前の船と現在の船、10年後の船は、同一の船ではないはずである。
しかし、他の部品に交換されても、船全体の構造は変わらないため、同じ1艘の船だと認識される。


このように、イスや船の知覚に断絶があるにもかかわらず、それらに同一性を認めるものは、ヒュームによれば、人間の想像力である、ということ。


同じことは、自我についても言える。

自我とは私のこと。

自我=私は、日々、さまざまなことを見たり、聞いたり、感じたりしており、こうしたことを生まれてから死ぬまで繰り返している。

つまり、私という存在は、現れては消える知覚や感情にしかすぎない。
それなのに自我=私が存在すると思うのは、ひとえに想像力のためである。
そのため、自我とは本来、たんに

「知覚の束」にしかすぎないということ

になる。
極端に言えば、知覚している時に、存在を認識している。知覚していない時は、存在していない。1秒前の知覚して存在したものはもうないということ。


ゆえに、ヒュームはもう一歩推し進める。1秒前知覚したものと、今知覚していているものに、因果関係はない
つまり、1秒前に存在したものと今存在したものは、同一のものでない。
これ以上掘り下げると、頭が痛くなるので、もうここでヒュームはおしまいです。


しかし、この因果関係の否定は、後で出てくるカントに大きな影響を与え、とんでもないことを言い出します。


「私たちがモノを認識しているのではなく、逆にモノが私たちに合わせて存在している」 

オーノー!これについては、また後日詳しくゆっくりご紹介いたします。

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