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トイ・ストーリーを語る



{2022.09.07の記事}

私が必ず泣くアニメーション

トイ・ストーリー


について語ります。

⚠️めっちゃ語ります。⚠️
⚠️ご注意ください。⚠️
⚠️当然ネタバレも含みます、お気を付けください。⚠️


リメンバー・ミーを見るまで、断トツで好きだったシリーズです。

と、言ってもリメンバー・ミーは今のところ続編が存在していないので、トイ・ストーリーとの比較対象にはできない側面がありますが…


トイ・ストーリーは、シリーズ全てを通して、よく出来てる作品だと思います。

子供の頃トイ・ストーリーの1作目を映画館で見て、

CGアニメーション


というものに衝撃を受けたのを覚えています。


そこから、続編を見ることなく大人になり、22歳頃にトイ・ストーリー2とトイ・ストーリー3のDVDを買って、初めて見ました。

トイ・ストーリー3で号泣して、
『アニメーションでこんなに泣けるんだ!?』って、また衝撃を受けた訳です。

たまたま私が
・子供の頃にシリーズ1作目を見たこと、
・大人になってから続編を見たこと

により余計に私に響く作品だったのだと思います。


先にトイ・ストーリー3について語ります。

私が3を見て必ず泣くポイントは2点あります。

・ウッディたち主要キャラが焼却炉で燃やされそうになっている場面
・最後にアンディがウッディたちの紹介をしながら、ボニーにおもちゃを受け渡す場面

これらは、結末を知っていても、毎回泣きます。

1と2を見ているから、主にウッディとバズ、他のメンバーも、人間の世界で非常に危険な旅をした経験があり、強い絆で結ばれていることも知っているし、

ウッディはどんなときも諦めない、友達を見捨てないキャラなのに、焼却炉の場面では、
『大事な友達を救うことが出来ない!』という辛い気持ちが想像出来るし、

『諦めるしかない。』と悟って、
『みんなで手を取り合って最期を迎えよう!』という決意で、

私自身がみんなとお別れになるー!

と、感じてしまって、耐えられないのです。

結局、リトル・グリーン・メンが助けてくれるって分かってても、このシーンだけは泣きます。

リトル・グリーン・メンが
「カーミーサーマー。」
と言う場面で私も一緒に
「がーみ〝ーざーま〝ー😭」
って言っています。


この場面はCGの技術的にも、凄いですよね!

炎に照らされた、おもちゃの感じがとてもリアルです。

『これで、みんな最期になるかもしれない!』という場面なのに、キャラのみんなが園児達からクレヨンなどで汚された、ボロボロな状態なのも、可哀想過ぎて耐えられません。

この演出がわざとなのか、脚本の流れのせいなのかは分かりませんが、

[みんなの最期になってしまうかもしれない]のに[綺麗じゃない]

という画が、絶望感を際立たせている気がして、
『よく出来たアニメだな…。』って思ってしまいます。

この場面で泣きすぎて、メインキャラたちがどうやってアンディの家に帰ったのか、何回か見直すまで分かっていない程でした。

『え、何でみんな帰れたん?』という部分は、4回目に見た位でやっと分かりました。


ラストでアンディが自分のおもちゃたちをボニーに紹介する場面は、最高のシナリオだと思います。

あのシーンで、ボニーに対してアンディが1つ1つ、おもちゃを紹介していきますが、私たち観客に向けて、アンディが紹介してくれているような気分になります。

映画(シリーズ)のエンドロールの役割というか、舞台のカーテンコールの役割というか、本当に綺麗にトイ・ストーリー1、2、3のまとめを果たしている場面だと思います。

アンディが箱から1つ1つおもちゃを取り出していく順番は、もしかしたら[お気に入りじゃない物順]なんじゃないかと思います。

いや、全部お気に入りだし、宝物なんだけど、このメンバーの中ではジェシーとブルズアイが、一番新参物で、思い入れが比較的浅いのかな、と。

もしくは、ボニーに受け入れて貰えるように女の子の人形から紹介したのかもしれませんが、[離れがたい物を最後に渡す]という演出が結構要なのかな、という気がしています。




ここで、トイ・ストーリー4についての話に入ります。

正直、3で綺麗に完結していたし、
『あんなに最高なエンドを迎えたシリーズに続編作るって…ちょっと…。』と思ったのもあって、これも映画館には見に行けませんでした。

でも、好きなシリーズなので、見てみたい気持ちも大きかったので、凄く葛藤していた作品です。

結局、またもやDVDで見るということになるんですけど、やっぱりこれまでの作品とは若干[毛色が違う作品]にはなっていた気はします。

CGの技術が爆上がりし過ぎていて、そこが、これまでのシリーズとの違いが顕著になったポイントにも感じます。

また、

[1~3はジョン・ラセター監督が完全に指揮を取っていたもの]
から、
[4ではジョン・ラセター監督の世界観ではないもの]
に仕上げた

という事実が、どうしても、トイ・ストーリー1~3と毛色が違うように感じる主因でしょう。

とにかく、これまでのトイ・ストーリーシリーズの世界観からは、ちょっとだけ離れる作品になったのは、事実だと思います。


まぁ、そんなトイ・ストーリー4ですが、私はラストでしっかり泣くんですよね。


アンディの1番大事な宝物、ウッディを
「大事にしてくれるかな?」
ってボニーに譲ったのにも関わらず、ボニーはあっさり飽きてしまいますよね。

アンディとウッディの絆を知っている私たちからしたら
「おいおいおいおい…」
と、ツッコミたくなってしまう気持ちもありますが、
『5歳位の女の子に、仮面ライダーのフィギュアとプリキュアのフィギュアを渡したら、そりゃプリキュアに愛着湧くよね…。』と、いう気もするので、
『ある意味リアルなシナリオだな。』と思います。

また、ボニーが自分でゴミから作ったフォーキーを[おもちゃ]として大事にするシナリオも、リアリティーがあるように私は感じました。

なので、トイ・ストーリー1~3が[完全なファンタジー]だとしたら、4には[ドラマ要素がちょっと加わった]、そんな感覚があります。


ウッディは、アンディの家ではリーダー的存在であり、[アンディの成長を見守ること]が、[おもちゃとしての使命だ]として存在してきました。

だからこそ、アンディのおもちゃが失われて、[アンディが悲しむこと]を避けたかったからこそ、[自分が危険を犯してまで、他のおもちゃを助けた]という側面もあるのだと思います。

4の冒頭で、わざわざ[ボーとの別れ]だけでなく、[おもちゃ救出作戦]を描いていたのも、そういうウッディの気持ちを表現していた部分もあると思いました。

また、この場面で、ウッディの使命感があるからこそ[ボーと離れる決断を下した]という経緯に繋がっていることも、凄く現実的な心理描写に感じます。


一方、ボニーの家のおもちゃたちには、ウッディのような使命感が無いんですよね。
「おもちゃはボニーのただの遊び相手。」
「ボニーと全力で遊ぶことが使命。」
という風な感覚の違いがあるのだと思います。

ボニーのおもちゃのプリックルパンツが演技に集中する性格なのは、[演技オタクなだけ]じゃなくて、[全力で遊ぶという使命感も持ち合わせているから]という側面も多少ありそうな気がしますよね。


[おもちゃとしての生き方]とは、一体何なのか
っていう深い疑問と対峙する作品がトイ・ストーリー4なのだと、私は感じました。

だから、
"ボニーの家という新しい環境にきた"、
"元スペース・レンジャーだと思い込んでいた"、
"1でウッディの使命に共鳴することになり、ずっとその使命感と共に生きてきた"
バズが4で
『自分は何を選択すべきなんだ?!』という葛藤を繰り返していて、[行動を選択する際に逐一自分のボタンを押す]という描き方でそれが表現されているように感じます。

ギャビーギャビーに捉えられたフォーキーを助けようとして失敗し、
・ウッディがリトライしようとする姿
・その他の仲間がボロボロになっている姿
を見て、[次に自分はどう動くべき]なのか、[なかなか決められなかった]、という点も、[1~3までのバズのキャラクターとはちょっと違う感じ]で表されていたように見えるので、バズの心の葛藤にも少し触れていたのだと思います。

トイ・ストーリー4で、ウッディの心の成長をメインで描いた上で、バズ・ライトイヤーの成長を描いたのが、映画バズ・ライトイヤーなのかな。
と、思ったんですよ。

『だから、トイ・ストーリーのスピンオフ作ったんだ…。』っていう私なりの解釈です。


話をトイ・ストーリーに戻します。

ここにきて、また3に触れるのですが、3のラストで、ウッディが「おもちゃをボニーにあげるように」仕向けたじゃないですか。

本来なら、アンディ自身はウッディだけでも大学に連れていこうとしていた位、アンディはおもちゃ(自分が大事にしていた物)と離れることができずにいたんです。

それを、ウッディが、[アンディを成長させる]ように仕向けた訳ですよね。

3でウッディは、アンディの子育てを完了してた訳です。

4で、ボニーのおもちゃになっていたとはいえ、ウッディ自身が
・アンディ離れを完了していない
・アンディのとき程、ボニーを育てようという意識が湧いていない
このフワフワした感覚をウッディ自身が誤魔化す目的で
「フォーキーは俺が面倒を見る。」
という状況を生み出していたのでは無いでしょうか。

ウッディは、
ボニーを笑顔にするためにはフォーキーが必要だ。」
と言いながら、自分のためにフォーキーのお守りをしていた。

と、いうことに、フォーキーと歩いている途中で自ら気付いたんだと思います。

だから、アンティークショップに着く頃に、フォーキーが
「僕はボニーの元に行かなくてはいけないんだ!」と自覚できたのではないでしょうか。


アンティークショップの前で
「ボーがいるかも…。」
と、
ボニーの元にフォーキーを返すという使命感
ではなく
自分の欲に従う
ことを優先したことで、ウッディがウッディ自身のために生きる決断をする方向に向かっていたんだと、後から気付きました。

こういう表現が、ファンタジーっぽくないと、私は感じます。良い意味で、です。


ギャビーギャビーにボイス・ボックスをあげてしまった流れも、よく出来てますよね。

ギャビーギャビーは、アンティークショップの中にずっといるだけの人形なので、おもちゃなのに、おもちゃとしての役割を生きていない存在です。

そこに、ウッディから貰った(奪った?)ボイス・ボックスを装備することで、"おもちゃ"としての人生を歩き出すスタートを切った訳です。

反対に、ウッディは、おもちゃとしての"しがらみ"を手放したんですよ。

ウッディが、おもちゃとしてではなくウッディとしての人生を歩き出すスタートを切ったということです。


そんなこんなで、ラストではこれまでの仲間とお別れするのですが、映画内の時間軸でも10年前後、共に暮らしていた仲間との別れなので、私は号泣します。

何だろう…私個人的に、フレンドシップと程遠い人間なので、トイ・ストーリーで描かれてるフレンドシップがとても心に響くんですよね。

ラストのセリフで、
バズ「無限の彼方へ」
ウッディ「さぁ行くぞ」
と、言っているのも、
ウッディが
「自分の人生を歩み始めるぞ!」

と宣言していることを表現しているように聞こえるので、ハッピーエンドなんですけど、仲間と離れるっていう部分がほろ苦くて、こういうところもドラマっぽさを感じてしまいます。

( ;∀;)。oO


トイ・ストーリー3を作った時点では、4を作ることは想定していなかったと思うのですが、アンディからボニーに1番初めに手渡したのがジェシーなので、ボニーにとっての1番がウッディではなく、ジェシーになる運命だったという見方もできると思っています。

映画ではありませんが、トイ・ストーリー・オブ・テラーで、ジェシーが主人公として描かれていたのも、
・ボニーのお守り隊長として
・ボニーの相棒として
の強さを身に付けていくための通過儀礼だったという解釈で見ても、何ら違和感が無いので、本当にシリーズを通して凄い作品だと思います。

めっちゃ好き。

途中でも書いたように、トイ・ストーリー4は、
おもちゃとして生きるとは?」
自分として生きるとは?」
という、凄く深いテーマに触れているように感じます。
・親愛なる持ち主がいるおもちゃ
・親愛なる持ち主に出会っていないおもちゃ
・持ち主がいないおもちゃ
様々な立場のおもちゃが登場するので、
[持ち主に捨てられたおもちゃ]がヴィランとしてピックアップされていた3よりも、ちょっと複雑なメッセージテーマだったのではないでしょうか。

私個人的には、今後ジェシーの成長も描かれるような気もするので、トイ・ストーリーの続編がありそうな気がします。

続編があるとしたら、ジェシーの成長を描いて最後かな、と。

ジェシーは、親愛なる持ち主を経験するのは3人目なので、トイ・ストーリーの登場キャラクターの中で[1番経験豊富なキャラクター]です。

活発な性格で描かれていたり、閉所恐怖症なので、一見子供っぽいというか、"やんちゃな少女"感が強いのですが、実は"おもちゃとしての在り方"を1番心得ているのがジェシーなんじゃないかと思います。

トイ・ストーリー・オブ・テラーで、閉所恐怖症を克服する部分を描かれており、4でもボニーのリュックに入って幼稚園に着いて行っていたので、もう少し深い部分の成長が描かれる気がします。

と、いうか、そういうテーマに是非挑戦して貰いたいです。

4のエンディングで、ジェシーは親愛なる持ち主自身が、自分の友達〈おもちゃ〉を生み出す場面を直接目撃しています。

ボニーが成長することで、いずれ自ら生み出した友達の、フォーキーやナイフィーとのお別れも経験する可能性が高いです。

そういう部分に私は強い興味があります。




ここにきて、まさかの1、2についてまた少し触れますが、1では、ピザ・プラネットにウッディを連れて行ったはずのアンディが、ピザプラネットから帰ってきたらウッディがいません。

日本人の感覚では、お店(この場合ピザ・プラネット)に
「落とし物ありませんでしたか?」
って、確認しそうな気がするのは、私だけでしょうか。

トイ・ストーリーを日本ナイズしたら、ダイナコ(ガソリンスタンド)に置いていかれたウッディとバズが、ピザプラネットの落とし物センター的な所(とか、事務所)を目指して、
アンディを待つ→アンディが来てくれて再開
という流れになりそうな感覚があります。

2では"ヤードセール"という、日本人の感覚に無いイベントが登場します。

日本ナイズすると、フリーマーケットに出品するという感覚でしょうか。

現代では、ネットショップやネットオークションへの出品ですね。(トイ・ストーリー・オブ・テラーのモーテルの主人のように)

また、トイ・ストーリーシリーズ全体的に[拾ったおもちゃを自分の物にする]という感覚も、日本的ではないですよね。

この他にも、冷静に見ると、トイ・ストーリーシリーズって、
「ん?」
ってなる場面がちょこちょこあると思います。

そんな、違和感があるにもかかわらず、こんなに人気で、(実際私も好きだし)世界観が確立されたアニメーションって凄いなって思うんです。

その凄さの理由が作品ごとに哲学的テーマを盛り込んでることなんじゃないかな、と。


1で、おもちゃの世界にて、おもちゃとして生きる姿を見せて

2で、おもちゃとは子供のための物なのか、大人のための物なのか。子供のための物であるべきだ、と表現して

3で、子供が成長した時に子供はどうやっておもちゃから卒業するのか、という部分を見せて

4で、おもちゃとして生きるとは、何なのか。自分を生きることだ、と表現して

現実の私たちが対峙しがちな心の葛藤を重みを感じないギリギリのラインで刺激してくるところが、私がトイ・ストーリーシリーズに魅力を感じる大きな理由です。


ウッディは、2で1度、アンディの元を離れて、東京の博物館に行こうとしました。

その時から、ウッディ自身が
『どう生きるのか?』という葛藤を仄かに持ち始め、4でその疑問に答えを出した、と捉えれば、4は作られて良かった作品だと思います。

この、ウッディの葛藤から決断に向かう様子が、私に希望を与えてくれているので、最近とても心に響くのです。

To infinity and beyond.
無限の中へ、そして"超えろ"

と、私の背中を押してくれているのかもしれません。


トイ・ストーリーは、私にとってかけがえのない作品です。

私もウッディのように、自分として生きることができるように早くなりますように。


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