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かつて子供だった私達は、大人になっても見えない檻の中で過ごしている

「実家を売ってもいいかって」
電話を終えた夫が告げた一言で、私は相手が誰かを悟った。
「好きにしてくれたらいいのに」
そんな言葉を漏らすと、夫は少し眉を下げて「なんでですかね?って聞かれたよ」と言う。
「なんでって言われても…」
深いため息を吐きながら、その理由を私が知りたいと思う。

姉からの連絡を一方的に遮断してから一年半が経つ。何故だと聞かれても、姉を納得させられる理由が見当たらない。ただ「もう無理だ」と思ってしまった、それだけに過ぎない。それなのに、どこが「無理」なのかと聞かれれば、あらゆる言葉を尽くしても足りないほどの感情が湧き出てくる。その感情を私はどう表現したらいいのか分からない。

目の前では夫が私の言葉の続きを待っている。しかし、ぎゅっと結ばれた口元を見て「なんででしょうねって答えといたよ」と言う。
「ありがとう」
申し訳ないと思う。連絡を遮断してから、姉の携帯も自宅の電話も着信拒否とし、SNSはブロックした。姉にとって私と連絡をとれる手段は夫だけで、間に立つ夫からすれば、せめて自分にだけは理由を伝えて欲しいと思っているだろう。
 
父が死んで六年が経った今でも、実家の名義は父のままだ。売却するにあたって私への確認は必須で、名義をどうするのか、相続をどうするのか、母をどうするのか、姉妹で話し合わなくてはならないことが山ほどある。

それなのに私は逃げている。
一年半前からずっと逃げている。



姉は24歳の時に、実家から出て行った。

現在の夫である義兄のマンションに転がり込んで、そのまま戻ることはなかった。数ヶ月後、このままではいけないと義兄が姉を連れて話合いに訪れたところ、世間体を気にする父は「結婚するなら許す」と言い、そのまま二人は入籍した。

人柄の良さもあるが、『息子』が欲しかった父は義兄を大層気に入り、食事に誘ったり、小遣いを渡したりして可愛がった。そして両親が離婚して実父とは音信不通、実母も数年前に亡くしていた義兄は、素直に父の好意を受け取ってくれた。

まだ若かった二人が結婚を望んでいたのかは分からないが、姉の人生を丸ごと引き受けてくれ、今も一緒にいてくれている義兄にはとても感謝している。


しかし、母の心は複雑だった。
突然家を出て行った姉が、そのまま戻らないとは考えもしなかったのだろう。

姉が結婚してしばらく経ってから、私は一人暮らしをする決意を父に告げた。高校卒業後に就職して貯めたお金が目標額に達したからだ。父は烈火の如く怒り、私にコップを投げつけて「家を出るなら縁を切る!」と怒鳴り散らした。

どれだけ怒号を浴びせられても、私の決意は変わらなかった。事情を察している会社の先輩が保証人になってくれる手筈は整っていて、むしろ縁を切って欲しいとすら思っていた。

「出ていけ!」
父の言葉に立ち上がり、短い廊下を通って自室に戻ろうとしたところ、後ろから母がオロオロと追いかけてきて、「ナゴミちゃん、行かないで」と言った。

あの時、振り返らなければよかった。
そのまま部屋に入ってドアを閉めてしまえばよかった。

母は涙目で「出て行かないで」と言い、そのまま崩れるように膝を折って、ゆっくりと額を廊下につけた。
「お願いやから。あんたまでいなくなったら、お母さん生きていかれへん」
そう言って右手をそっと伸ばして、私の左足の甲に触れようとした。
「なんで…」
私は母が触れる前に左足を引き、母の後頭部を見下ろした。そこにはかつて私に手を上げ、長時間にわたって人格を否定し、ゴミまで漁って束縛し続けた母の姿はなかった。
「どうやって生きていったらいいか分からへん…」
母は額を廊下につけたまま泣き続けた。
「なんでなん…」
吐き気がした。怒りが湧いた。言葉に詰まって涙が流れた。私は母の分身ではない。私は姉の分身ではない。どうしてそんな簡単なことが、この人には分からないのだろう。どうしていつだって自分が一番なのだろう。
「お願いやから…お母さんのそばにいて下さい」
私は母に嫌悪感を抱きながら、母の底知れぬ喪失感を感じていた。姉がいなくなった穴埋めを妹で補おうとしている悲痛な叫びを目の前にして、自分の存在の虚しさを感じた。
「そんなん、違う…違うやん。いらない。そんな愛情欲しくない!」
母は何も言わなかった。伸ばした右手は握り締められ、小刻みに震えていた。


私は家を出なかった。

自分の生活を守る為、父からのモラハラに耐え続け、娘達に必要以上の『躾』をしてきた母を、捨てることができなかった。

ずっと外に出たかった。父が支配し、母が監視する檻から出て自由になりたいと思っていた。それなのにあと一歩というところで、私は怖気づいたのだ。母が父との生活を「あんた達の為だ」と言って耐え続けたように、私も母の為に檻の中に留まった。

檻の鍵はもうとっくに壊れていたのに。
その扉を閉めたのは自分だ。


先に家を出た姉を恨んでいる訳ではない。
ただ、その後何十年と目の前の幸せを認めずに、自分がいかに不幸かを語る姉にひどく疲れてしまったのだ。

姉は幸せになるのが怖いのだと思う。私達は『家族の幸せ』を知らないのだから。愛されれば愛されるほどに相手を疑い、自分の子に同じことを繰り返すのではないかと怯える。あたり前の幸せを受け入れられず、不幸であることに安心感を抱く。常に不安定な泥濘みに身を置くことでバランスを保っている姉を、私は責めることができない。

「あんたはええやん」
以前、そう繰り返す姉に私は何も言えなかった。ただ嫉妬をぶつけてくる姉より不幸でいるより他なかった。そうやって姉を安心させて、一緒に目の前の幸せを否定した。

かつて子供だった私達は、大人になっても見えない檻の中で過ごしている。

その檻から出て自由になりたい。
不幸なんて断ち切って幸せになりたい。

いつしか私は強く、そう思ってしまったのだ。



「一切関わらないということでいいですかって」
翌週、再び姉から連絡を受けた夫に「今後も含め、相続は放棄する」ことを伝えてもらった。
「うん、迷惑かけてごめん」
私は間違っている。どんなに確執があったとしても、きちんと自分で対応しなくてはいけないのに、姉に母のことを丸投げし、夫に託す私はとても無責任で狡い人間だと思う。
「いいよ。話はこっちで聞くから」
夫は優しい。何も聞かず、怒りもせず、私を守ってくれる。私はその優しさが苦しくて、この場所から逃げたくなる。いつもと変わらない生活を送りながら、逃げたくなる衝動を必死で抑えている。



かつての家族からずっと逃げている。
でも、今の家族からは逃げたくない。

強くなろう。
もっと強くなろう。


もっと強くなりたい。


#記憶の引出し


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