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たしかな日常

仕事が終わり家に帰宅すると、「主婦日記」と書かれた本のようなものが机の上に置いてあった。


どうやら、今は亡くなったおばあが当時書いていた日記らしい。母がおじいの家にくと、おじいが部屋の整理をしていたら見つけたらしく、持って帰ってきたらしい。 


表紙には「1995 主婦日記」と書かれていて、文庫本ぐらいの大きさなので、ぱっと見は少し古びた本に見える。1995年におばあが書いていた日記。1995年と言えば、私が誕生した年である。私の誕生日のページを開くと「大望の女の子出産」と書かれていた。大望の女の子だったらしい。笑 


パラパラとページをめくっていくと、その日おばあの身の回りで起きた出来事が3〜5行程度で綴られている。私たち家族もよく登場してきて、20年以上も前にこんな日々があったことを思うと、なんだかあたたかい気持ちになった。


同時に、たしかな日常がそこにはあったのだと思った。私たちは、1日を何百回、何千回、何万回と重ねて今日を生きている。その日に何があって何を感じたかなんて次の日にもなれば忘れる。1日1日を過ごしてきたことには変わりはないけど、記憶としてはなくなってしまう。毎日が繰り返しの日常なんてそんなものだとも思うし、仕方のないことだと思う。


おばあの日記を読むと、そんな些細な日常がたしかに存在していたのだと何十年と時が経った今でも感じることができるのは、おばあが毎日その日のことを書き留めてきたから。きっと当時のおばあは、何十年後に娘と孫にこの日記を読まれるなんて思ってもなかっただろうし、ただなんとなく日記を備忘録のように書いていただけかもしれない。


でもそんな日常こそが私は好きだ。たわいもない日常。記憶からはすぐになくなってしまうような些細な日常。そんな日常こそが、愛おしいと。



毎日noteを書くようになり、暮らしに目を向けるようになったからか、日常に対してそんな風に感じるようになった。私がこうして毎日書いているnoteも、変わり映えのないどこにでもあるようなありきたりな日々だ。有名人でもなければ、海外暮らしをしているわけでもない。ただの凡人なんだからそれもそうなんだけど。


すぐに忘れてしまうような日常だと思ってきたけど、意外と毎日書くことがある。他人が羨むような出来事でもないし地味な日常だけど、今日はこんな1日だったと。


毎日、日常を見つめては言葉にしていると、そんな些細な日常が愛おしく感じるようになった。変わり映えのないありきたりに感じる日々も、実は色とりどりでタイトルだってつけられるようなストーリーのある日々なのだ。



次の日には忘れてしまうような1日。でもそこにはたしかな日常がある。



私が毎日noteを書き続けているのも、そんな些細な日常をたしかにその1日があったということを感じていたいからなのもしれない。


おばあの日記を読んで、そんなことを思った。



おまけ


「よき生活の第一歩」
主婦日記の最初のページに書いてあった。

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