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『精一杯の嘘』第五話-最終章-それでいいんだと-

家の裏に流れる小さな川の橋の上の欄干に
手袋の両手を乗せて身を乗り出した。
厚い氷が張り朝日に照らされてキラキラ光っている。
ふうっと吐いた息が白く曇り吸い込んだ空気のあまりの冷たさ
に鼻の奥がツンとして思わずマフラーの中に顔を埋めた。
トートバッグに手を突っ込んでスマホを探った。
ラインは未読のままに少し落ち込むけれど仕方ないなと思う。

生活の基盤を立て直さなくてはならない大事な時に
何度も電話したりラインを送るなど
「私と仕事どっちが大事なの?」と言っているようなもの。
邪魔者以外の何者でもない。
「そっか一緒にいたいのか。分かった、じゃあ仕事しないで
お前とずっと一緒にいる」彼がそう言ったところで
私が全て面倒をみるなんて覚悟も無い癖に
何て無責任なことをしていたのだろう。

水面を見下ろして「仕方ないな、仕方ないな」と
お父さんの口癖を心の中で何度も繰り返した。
彼は今、必死で仕事を頑張っている。
前に進んで行く彼を応援してあげたいのにその姿を見るのが辛いだなんて。
スマホでYoutubeを開いて
今まで観ることが出来なかったMVのサムネイルをタップした。
彼を初めて観たときの衝撃と同じ感覚。
相変わらず無駄に激しい感じが全然変わってない。
命を削って音を出しているかのような姿が胸に突き刺さる。
ああ、これが私の好きな彼なんだ。
これが本来の彼の姿であってみんなが望んでいる姿。
動画の中の彼が熱く歪んで見える。

今まで彼の力になりたいと思ってやってきたこと。
ルアーとか釣りベストとか俳句とかプレミアムモルツとか、、
あれこれ口出ししなくても彼はしっかり自分の力で人生を切り開いている。彼にとって私は口煩いお節介なお母さんになっていた。
これじゃ「仕方ないな」と信じて見守っていたお父さんとは正反対。
自分を納得させるための「仕方ないな」ではなくて
今の彼の姿をそっと優しく包み込んであげたい
「仕方ないな」そして「あ・い・し・て・い・る」と呟いた。

絶対に手に入らないものが偶然が重なってある日突然に手に入った。
それが自分のたった一度の感情任せのツイートが原因で
手元から消えてしまった。
彼を何としてでも取り戻そうと必死になった。

彼との出逢いは運命だと思った。
赤い糸?運命?前世の記憶?そんな不確かなものを信じて
必死に繫いだ糸がいとも簡単に切れてしまう。
でも、元々は無かったもの。
遠くから眺めていただけのもの。
それが自分から離れて行こうがそれが本来の姿。
彼と私の距離はそのくらいが正しかった。
近づき過ぎないこの距離感が丁度いい。
ふっと心が軽くなった気がした。
彼がいない世界は少しだけ肌寒くて清々しくて、でも自由な世界。
私はこれからこの世界を生きて行く。

年が明けて最初の検診の日だった。
娘はリビングの引き戸をガラッと開けてただいまより先に尋ねた。

「ママ検査の結果どうだったの?」

「おかえり。前より悪くなっていたよ。お腹空いたでしょ?ご飯にするね」

出来るだけ暗くならないように明るく言った。
ガスコンロのボタンを押してビーフシチューが入った鍋を温める。

「先生に手術を勧められたの。でもこの病気は進行がゆっくりだから
そんなに慌て手術を決めなくても良いって。
忙しい時期が過ぎたら受けようかなって考えている。
そうそう異形成は自然治癒することもあるから半年くらい時間があったら
もしかしたら直っちゃうかもね。そうしたら手術しなくたっていいよね」

シチューをお皿に盛りサラダと一緒にテーブルに運んだ。

「ママは治らないと思うよ。そんな気がする。
検査の度に悪くなってるんでしょ?
早いうちに悪いところ取っちゃえばいいのに。
ママはそんなに死にたいの?孫の顔を見なくてもいいの?」

一瞬怯んだ。

「うん、やっぱり、手術を早めてもらおうかな」

「そうしなよ、明日、病院に連絡しなよ、絶対だよ!」

「大丈夫、連絡するね」

娘は安心したように二口目のシチューを口に運んだ。

がんが進行して自宅で最期を迎えることになったら。
たぶんこの和室に介護ベッドを置いて
昼間は義両親が夜はふたりが交代で診ることになるだろう。
これでは足手まとい大きなお荷物。
そして40代後半という再婚するのにも微妙な年齢の旦那と
まだ20代の娘を残し家族に見守られて天国に旅立つ。
不倫を繰り返して家族を裏切り続けている私が天国に行けるはずがない。
確実に地獄に落ちる。
そもそも天国や地獄なんてあるのだろうか。
どちらにしても手術を拒否したらそんな未来が待っている。

いっそのこと、魂だけ彼の元に飛んで行って
彼の首筋からすっと憑りつくように体の中に入って
彼の目で同じものを見て耳で同じものを聞いて肌で同じものを感じて
そうやってずっとずっと彼の命が尽きるまで一緒に居れたらいいのに。

今なら内側からほんの少しくり抜くだけでお腹に傷跡も残らない。
全摘出するとなっても傷跡が目立たない腹腔鏡下手術もある。
子宮が無くなっても女性であることに変わりはないのに
どうして手術を躊躇う?

子宮に手出しされたくないからだ。
彼との糸は途切れてしまった。
だけど子宮は彼を手に入れることが出来る最後の砦。
この子宮が無くなってしまえば
彼と子どもが欲しいと執着する気持ちも無くなるだろうか。。。


先生は手術スケジュールを書き込む手帳を広げて尋ねた。

「2月の半ばですと月曜日と金曜日が空いています。
どちらがいいですか?」

今日は手術日程を決めて同意書に署名する日だ。
「日曜日の午後から入院して頂いて月曜日の朝一に手術をします。
所要時間は約1時間程、掛かっても1時間半くらいです。
何事も無ければ翌日の火曜日には退院できるので二泊三日の日程です」

「日曜日の午後からの入院なら家の事も片付けてから来れるね。
でも立ち合いって必要でしょう?月曜日は仕事を休めるの?」

隣に座った旦那の顔を覗き込むと旦那も手帳を開いて
仕事は在宅ワークにするから大丈夫だと答えた。

「月曜日の手術をお願いします」

「分かりました、では、この日で予定を入れますね」

先生は手帳に月島しずくと書き込んだ。

「いつもなら一か月先とかお待ち頂くことも多いんですよ。
たまたまこの週は開いていました」

先生の言葉に旦那が良かったじゃんと私の腕を突いた。
診察室を出ると看護師さんから手術前の検査についての説明を受ける。
これから1時間かけて心電図や血液検査、肺活量測定などを行う。

「じゃあ、俺は電車で先に帰っているな」

「うん、ありがとう。気を付けて」

中央玄関から出て行く旦那の後ろ姿を見送りながら
この人に私の作ったご飯を食べさせたいなとか
春になったらまた一緒にあの川沿いの桜の下を散歩したいなとか
特別でも何でもない普通のことがしたいなと思った。

入院当日の日曜日。
朝から外に干していた洗濯物を取り込んで
旦那のシャツにアイロンをかけた。
お風呂も洗ったし掃除機も掛けた。
取り敢えず2.3日間は私が不在でも何とかなりそう。
義両親に「行って来ます」と挨拶をした。
娘が着替えやタオルなどが入ったトートバッグを持ってくれる。
入院棟の自動ドアの前で
旦那と娘が「頑張ってね」と手を振って見送ってくれる。
私もうんと頷いて手を振った。
看護師さんが、こちらですよと部屋を案内する。

ガラス越しのふたりが背中を向けて歩いて行く姿がエレベーターに消えて
私もふたりに背中を向けた瞬間彼の声が聞きたい衝動に駆られた。
この病棟から生きて帰れるのは間違いないから
死ぬ前に最後に想うのは彼だとかそんな大袈裟に考える必要もないのに。
だけど彼の体温を感じたかった。

翌日の8時半過ぎ。
手術衣に着替え終えてベッドに腰掛けて「これから手術室へ向かいます」と彼にショートメールを送った。
配信済の表示を確認して電源を切り正面のテーブルの引き出しにしまった。
直ぐに看護師さんに月島さんと名前を呼ばれた。
歩いて手術室へ向かう。

自動ドアが開いて体育館程の広さの中央手術室の両側には
薄い壁で仕切られた十部屋以上の部屋があり無機質な工場みたいと思った。先生と研修医が画像を見て
何かを話し込んでいる様子を見て少しだけ怖くなった。
私の様子に気付いた看護師さんが
「心配しなくても大丈夫ですよ」と言ってくれた。
右腕にルート確保の点滴の針が刺されて緊張で体が硬直する。
「少し眠りましょうね」と酸素マスクを口に当てられ
息を吸い込むと苦味が口いっぱいに広がり気分が悪くなった。
「今から麻酔を落としますね、気分はどうですか?」に顔をしかめたけれど「大丈夫です」と答えた。
一瞬天井がグニャリと歪んだように見えた。

「月島さん、目が覚めましたか?旦那さんが見えていますよ」
看護師さんの声が聞こえて重たい瞼を空けて天井を見上げると
病室とベッドを区切るカーテンの隙間から日が差すのが見えた。
ベッドの左にぼんやりとした視線を向けると旦那が立っていた。

「お疲れさん」

「今、何時?」

喉からかさかさと干乾びたような声を絞り出した。
「11時半過ぎたところ」

手術開始から2時間半は経っている。
先生は掛かっても1時間半と言っていたのに。
何かあったのだろうか、咄嗟に聞いた。

「子宮、取ったの?」

「取ってないよ。出血が多くて長引いただけだって言ってたよ」

パジャマの上からお腹を触ろうとしたけど思うように手が動かない。
何とか手を伸ばして
包帯やガーゼが貼られていないことを確認するとほっと安心した。

「ありがとう」

「明日の昼に迎えにくるから、それまでしっかり休んでな」

うんと頷くと旦那は安心したように病室を出て行った。
ショートメールを思い出して力が入らない左腕を持ち上げて
テーブルの引き出しに指を引っ掛けて開けてスマホを取り出した。
電源を入れてメッセージを開くと
彼の名前が一番上にあって青い点が付いていた。
「頑張ってください」の一言。
受信時間は8時37分。
すぐに返信してくれたんだ。
今から手術だという人を無視は出来ない。
励ます一言くらいかけるだろう。
でも、胸の辺りが温かくなってくる。
震える指で「ありがとうございます。手術が無事終わりました」と送った。スマホを胸の上に置いてまた目を閉じた。

子宮はここにある。
暫く身体を休めたら、また妊娠出産も可能かもしれない。
あんなに欲しいと思っていたはずの彼も子どももいなくてもいい。
彼に取りつく生霊になりたくない。
何故そう思ったのかは判らない。
手術が病巣と執着心を取り除いたようだ。
子宮にぽっかりと空いた小さな穴を
これから何で満たして行けばいいのだろう。

そして翌日の退院を迎えた。
帰宅して感じたことは私が一週間くらい家を空けても
旦那と娘のふたりで何とか出来るということ。
旦那も大学生の時は一人暮らしをしていたし娘はもうすぐ20歳。
洗濯物もキッチンのシンクにも洗い物はない。
「ママがいなくて大変だった」
そんな一言を期待したのに何だか拍子抜けした。
少し寂しい気もしたけれど娘の成長に安心感を覚えるけれど
旦那はそうはいかない。

午後から久しぶりに外の空気を吸って来るね、と散歩へ出かけた。
風はまだ少し冷たいけれど先月よりも日差しに力強さを感じる。
あと1か月もすれば川沿いの桜も咲く。
季節はどんどん移り変わり立ち止まってはくれない。
それは彼だって同じ。
それなりに挫折することはあってもひたむきに前へ進もうとしている。
たぶん過去はそんなに振り返らないだろう。
それが彼だと思うから。
私はどうだろう。

コートのポケットからスマホを出してショートメールを開く。
昨日送ったメールが未読のママを確認しても悲しくもない。
たまに電話が繋がったりするから
完全に連絡を絶とうとしている訳ではないのかも。

決して交じり合うことが無い関係性を平行線に例えることがある。
彼と私はくっ付いては離れまたふとしたことで繋がって
でもまた離れてを繰り返している。
この関係を何と呼ぶのだろうか。
名前なんて無くてもいい。

この例えられない距離感に
敢えて名前を付けてカテゴライズしなくてもいいのかも。
好き。たぶん、そんな言葉じゃ足りない。
愛しているとちゃんと伝えたくて。
でも照れくさいから、愛しているの代わりに何度でも何度でも
あなたの名前を呼びたい。
あなたがどうしようもなく落ち込んだり悲しいことがあったのなら
直ぐにでも駆けたい。
恋だとか愛だとか友だちだとかそんな風に自分の気持ちを
無理に決めつける必要は全くなくて
落ち葉が風に吹かれて自由に宙を舞って
気まぐれな場所に着地するように気持なんて
そのときの風に吹かれるままで良いと思う。

冬の木漏れ日が頬を照らす。
これでいいんだ、そうこれでいいんだ。
自分の気持ちに蓋をして無理に嘘を付かなくてもいい。


「あああー、ちょっと、ちょっと、待って」
指の間から思わず悲嘆に似た驚きの混じった声が零れた。
向かいの席の後藤さんがパソコンの画面から視線を上げて
私を不思議そうに見たのに、すみません独り言、と笑って誤魔化した。

昼休みに急いで外へ出て出て、さっきの動画の続きを観る。
彼がおばあちゃんの家の納屋を改装してスタジオを作ろうとしている動画。
工具が並んでいた壁の棚が取っ払われて
真ん中の壁や天井の板も外されている。
色んなものが床に散らばっていてまさに足の踏み場もない状況。
あの日彼と一緒にいたあの納屋はすっかり変わってしまった。
どう足掻いても、もうあの時には戻れない。
胸の奥から湧いてくる寂しさの波に溺れそうになるから
ゆっくり深呼吸するとこれで良かったのだと安心感に救い上げられた。

いつからスタジオを作る事を考えていたのだろう。
何か言ってくれたら良かったのに。
そうしたら、何か少しでも手伝いが出来たかもしれないのに。
でもそれはたぶん余計なお世話。
そこにスタジオを作るといことはファンや地元の人を招いて
ライブをしたり人が集まる楽しい場所になるということ?
そうなったら、、何だ、全然寂しくない。

彼と私の頑張る方向は違う。
でも立ち止まらずに走り続けたらきっとどこかで出逢える気がする。
彼はちゃんと自分の足で立って前へ進んでいる。
だから、大丈夫。私は信じてこの場所で見守るよ。
あなたを愛しているから。
温かいもので胸が一杯になる。
誰かを愛することは、こんなにも心が満たされるものなんだ。
そうだ!彼の新たな門出を応援してお祝いを送ろう。

2024年5月のある日。
私はもうすぐ到着する新幹線を待っている。
少し大きめのトートバッグを肩に掛けて右に笑う彼を見上げた。

『この物語はフィクションです』
登場する団体名・会社名・人名等は架空のもので
実在のものとは一切関係ありません。

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