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ワイが少し世界に絶望した日

小学校4年の頃、ワイは護摩木に「世界平和」と書いた。
憲法9条のデモに参加して、外国の方の隣で国会議事堂周辺を練り歩いた。
学校では、絶妙に陰湿ないじめがあった。
ワイが初めて世界に少しばかりの絶望感と失望感を覚えたのはきっとこの頃だと思う。

護摩木って知ってる? お寺とかに置いてあるんだけど。

ワイは変わらず少しの絶望感と共に生きている。

ポジティブな気持ちを絶やさずに、なるべく楽しく生きようとも努めているけれど、
ワイはこのままでええんかという虚しい気持ちが頭をよぎることはよくある。

このまま生きている意味はあるんか、
虚しいばかりのこの社会に居続けて、
なんの意味があるんやってね。

これを心理学用語で実存的空虚感と呼ぶ。

実存的空虚感

生きる意味の欠落感からくる虚しさのこと。心理学者のフランクルが提唱した概念。特に青年期に感じることが多い。
「急性型」と「慢性型」の2パターンがある。「急性型」は人生に突如として訪れた悲劇の経験から「生きる意味」を失う状態。「慢性型」はなぜか毎日がなんとなく虚しいと表現できるような日常生活で、時折意識化される空虚感がある状態のこと。

日本は交通の便も発達しているし、輝かしいビルは立ち並んでいるし、教育水準もまあ整ってはいるのだろうと思う。

それでも、明日食うに困る人はいるし、マイノリティの差別に苦しむ人はいる。
政治家たちは国会議事堂で昼寝してるし、ワイらの時給は上がらない。

絶望感や虚しさはいつだって隣で息をしている。

社会と心理は密接に結びついているの、知ってる?
社会の状況が、ワイらの心理的安定性を脅かすことはよくある。
たとえば、事件、災害、戦争、新しい制度。
それらの要因がワイらの心のネガティブなフックに引っかかって、しんどくなることは全然ある。

理不尽はいつでもワイらの近くにいて、
失望感はワイらのすぐそばで見てる。

深淵を覗く時、深淵も我々を見てる、みたいな言葉あるよね。


こういう絶望とかのネガティブな感情の厄介なところは、形を持たないところ。
曖昧だから、捉えづらくて、気づけばそれに飲み込まれてしまうなんてことはよくある。
だから、形を与えてしまうという方法がよく取られるわけです。

「あなたにとって、そのネガティブな感情は、どう言うイメージです? たとえば雲みたいとか」

そう、その感情のイメージ図を想像するんです。
そして、そのイメージのものが、どんな感じでいてくれたら、ちょうどいいのか、を探っていくと、わかりやすい。

ワイはこういうネガティブな感情を
ワンちゃんとか猫ちゃんとかペットのイメージで語ることが多い。

ワイが飼っていたわんわんは女王のようでした。きゃわかったな。


彼らって餌あげすぎるとお腹ポンポンにして乗っかってくる時ない?
でっっっか!!!!!みたいな。
おっっっも!!!!!みたいな。
餌をあげ過ぎず、適度に運動させて休憩させたら、ちょっとスマートになって健康度も増して、隣ですよすよ寝てたりせん?

ネガティブな感情も近いと思う。
社会的な負の要因とか、嫌なことがあったとか、そういうのを餌にしてネガティブな感情は膨らんで、おっも、でっかになって、ぐだあと乗っかってくる。


ネガティブな感情は、必要なんですよね。
自分が危ない目に遭う時、それを本能的に回避できる手段なので。
でも大き過ぎたり重過ぎたりすると、動けなくなる要因になるものでもある。
だから、適度に餌をあげて、適度に運動して、
適度な大きさにして、横にいてもらうのがいいの。

一緒にすやすやできるくらいの大きさと重さがちょうどいいと、ワイは思う。

皆さんにとって、ネガティブな感情って
どんなイメージを持ってらっしゃるかしら。

壁? もや? 神様? 重いスライム?

どんな感じでそばにいれば、心地いいだろう?

その感じにするためには、どうやっていこうか?

きっと、それぞれ全く違うんだろうなって思うな。
だから、いつか、皆さんの絶望の形、ワイにも教えてね。

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