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生と死の間で生きる僕たち


僕はよく自分が死んだ後の世界について考えることがある。別に今、「死」を考えるほど落ち込んでいたり、苦しんでいるわけではないがふとした時に考える。晩御飯は何にしよう?とかそれぐらいの軽いノリでふと思うことがある。


この癖のようなものが染み付いたのは僕の過去が原因であると思う。中学生の頃に祖母が癌になり、闘病生活を間近で見てきた。そして大切な人の死を目の当たりにし、祖父、そして父までもがこの世を去った。


僕と言う一人の人間に大きく関わった人たちの「死」はかなりの衝撃でいまだに受け入れれているのか僕にすら分からない。この世から居なくなったこの世界で、とり残された僕は止まることのない時間の中で歩み続けているだけである。


「死」と言う単語を口にすると、もちろん良い印象を人に与えるものでは無いので普段口にしないが、今までの過去の影響もあり少し身近に感じることが多くなった。

当たり前だが人は死ぬ間際、私明日でこの世を去りまーす!とは言わない。突然そんな日がきてしまうのだ。


そんな人の死を間近に見てきたからこそ、僕は考える。明日もしも自分の身に何か起こってしまった時、残された人達に残せるモノはどんなものになるだろうか?と。


僕は音楽が好きだから、自分といえばこのアーティスト!みたいな人を知ってもらっていれば悲しみに暮れる手前で少し心を和らげるだろうか?


形に残るものは捨てられなくなりそうだからこれは避けておいた方が良さそうだ。


逆に僕が残してくれてよかったと思えたモノは何かを考えた時に思うのは、何気ない会話の積み重ねで知ることのできた大切な人たちの心の中である


祖母は、自分よりも周りの人たちの事を考え行動に移せる優しい人だった。僕の人生で出会ったどんな人たちよりも優しさが深い人である。別に祖母が自分から言った訳ではないが、そんな人だと知っているのは沢山会話したからである。

一見なんでもない会話だとしても、その会話の中から出る人柄や情緒の積み重ねで相手を深く知ることができた。


そしてそんな人に憧れ、居なくなった今僕は大切な人たちの感情ごと背負って生きていくんだと原動力になっている。


僕がこの世を去ったと仮定し、残された人の悲しみを少しでも小さくするために僕が今できることは、大切な人と沢山会話をすることなのかもしれない。そして僕がやり残したことが少ない人生だったと証明するために、やりたい事は今この瞬間にやっておくのが良いのかもしれない。


生きている僕たちからすれば「死」は目を背けたくなるかもしれないが、そんな時は有無を言わせず突然やってくるものである。今を生きながら死と隣合わせで、いつか来る「その日」までに全力で生きていきたい。


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