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世界の解像度を上げるには

今日は桜を見に行ったんです。オリンピックを開けるくらい厳重な感染症対策でぷらぷらと市内を歩いてました。今日のサムネは通った知恩院さんの写真ですが横に引き延ばされてどこか不気味になってしまっているのが少しショック。

一緒に歩いていた人が京都府民ではなかったので彼女の要望に沿って桜を見ることができるルートや場所をそれなりに調べてた。

そうなるとこれまで当たり前みたいに歩いていた並木道が今日は桜並木になったし、これまで普通に通り過ぎていた神社は桜の綺麗な世界遺産になった。

何かしらの情報が付け足された景色はこうも変わるのかとしみじみ感じながら、一昨日?通った祇園の景色を見ていた。

一昨日書いた記事を書いたきっかけとなる場所と同じ場所でした。よかったらどうぞ。

昔々、iPhoneが売られ始めた頃に『セカイカメラ』というアプリがリリースされた記憶がある。

ARと位置情報を使って、カメラに写した場所に誰かの感想や情報が浮き出てくる仕組みだったはず。

きっとそのレンズ越しの画面に映る情報は今では自分自身の発見と想像と経験が働いてくれているのだろう。

少し前から自分の中で『解像度』の言葉が食い込んでいる。

これはきっと画素数とかの話ではないだろうし、自分の中のフィルターの数でもない。

一つの単語に含まれる情報量が絡んでいるのではないかと思っている。

というのは、頭の中で一つの単語からいくつ関連する言葉に枝分かれさせることができるかを意識するべき話であって、引き出しの中に単語があるのではなく、類語辞典の一部として単語が整然と並んでいる状態であるべきではないか。ということ。

2.3年前に読んだ「頭の良い人と悪い人の違い」というツイートを今でも覚えている。

何かを見て、それに対する直接的な感想(単語)しか出せない人が「頭の悪い人」で、何かを見て連想する単語が多い人である。という話だった。

もちろんこれは反対に言えば直接的な言葉が先行する人は「感受性が豊かな人」であり、連想する単語が多い人は「雑念が多い人」とも受け取れる。

ポジティブかつネガティブなことを言うならば、このツイートにおける「頭の良い人」は何かしらの発達障害を持っている可能性もあり社会において生きづらくなるかもしれない。

むしろ「頭の悪い人」の方が生きやすいのかもしれない。

さて、本当に『頭がいい』とはどういうことなのだろうか。

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