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既知の絶望をどう迎えてやろうか

ルポに書かれている人の話す言葉は、リポートや調査とは違う生々しさがある気がする。

特に比べられるほどの量を読んだわけでもないけど、そんなことを感じる。

『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』

こんなタイトルの本を読んだ。

夜の居酒屋さんや呑み屋さんにいる中高年のおっさん200人に聞いた「後悔」と書いて「人生論」と読む話が詰まった一冊。

これを20歳そこらの時期に読めてよかった。そんな感想。

呑み屋のおっさんが話す切実で生々しいノンフィクションの後悔は、笑えるようで笑えない。

なぜなら下手すると、しなくても、そこにいたおっさんは自分の行く末に違いないから。

悟りを開け・職場は敵ばかり!・スクールデイズ・男はつらいよなどなど、荒波を越え、呑まれ、びしょ濡れになりながらも今日を生きている男たちの話す言葉は全部に歴史が込められていた。

タイトルにもされている、「他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え」の言葉はやっぱり響いた。

少女漫画に出てくるような「離れていても同じ月を見ている」だとかのエモい()言葉の系譜を継ぐ一言ではなかろうか。

明け方の牛丼は食べたことがあるけれど、深夜の松屋で牛丼を食べた経験はない。

深夜、街にぽつりと光って人を迎え入れる優しい牛丼屋は、そこを求める人にとってのオアシスに違いない。

どんな境遇であっても、何が直前にあろうと、平等に無関心に牛丼は提供される。

絶望していようと、幸せの絶頂だろうと、牛丼の味は変わらない。

隣の人も、自分も、離れたところに座っている人も、食べている牛丼は同じ。

世界の終わりに浸っていても、隣の人の世界は既に終わっているかもしれない。

そして、その瞬間だけは全員等しく牛丼のグルーヴに包まれる。

全てをニュートラルにしてくれるコミュニティは松屋だったのかもしれない。

社会学、コミュニティとしての視点で考える松屋が急に神聖なものとして感じられてきた。

それだけのことを考えさせられる言葉が、たった1ページ、それも1人のおっさんの話だけに詰め込まれていた。

それが200人。200人それぞれがそれぞれの生きてきた轍を作り、読んでいた自分に手を振ってくれた気がした。

一歩間違えたらこうなるかもしれないと考えさせられる本はある。ウシジマくんとか、浅野いにお作品とか、色々ある。無いわけではない。

でも、この本は違う。

こうなりたくないな〜笑 と思いながら読み進めるうちに、これくらい話せる生き様ができればいいな〜と考えが改められる。そんな転換期を迎えられた。

間違ってもいい。でもそれをどう受け止められるか。

人生にライフハックはないけど、面白くする、面白くさせる術はある。

まだまだ失敗できるじゃないか!と200人のおっさんたちが肩を叩いてくれた。

まだまだ失敗しようと思う。

数十年後に同じような企画があって、偶然にもその取材に出会えたら何を話そうか。

そんな余裕が生まれた気がする。

今この瞬間に何かしら悩むことも、伝記になればカットされるほどのスケールに違いない。

これから先の失敗で絶望するようなことがあっても、多分大丈夫。それは自分だけに降り注ぐ絶望ではないから。

先人たちが何回も出会ってきた既知の絶望に、「おう!昔読んだわ!」と笑顔で迎え入れてやろう。

大失敗チュートリアル、無事修了。

ついでに今日の記事も終了させようと思います。

明日は授業受けて、そこからジムに行って、からの散髪。うーん、忙しい。

ではまた明日。

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