欠損の美学とドーナツ
ドーナツは穴が空いているのか? 穴が空いているからドーナツなのか? それとも穴があればそれはドーナツなのか? ドーナツがドーナツたる所以はどこからやってくるのか?
そんなことを昼間テレビに流れていたサーターアンダギーを見て思い出した。
ドーナツの穴みたいに穴を穴を穴だけ切り取れないという歌詞の曲が昔から好きだった。今や出す曲全部ミリオンの歌手、米津玄師がボカロPとしてやっていた時の、ドーナツホールという曲の中の一節がある。
多分この曲を聞いてからそんなことを意識し続けているのかもしれない。
何が言いたいかというと、欠けてるものが見えてる方が整って見えることない? っていう話をしたかった。
昨日に続いてまたにゃんたこかよみたいなことを書くけど、エッセイ本の中で「欠損があること」の美しさが書かれていた。
言われてみれば、欠けていることで「確かにそこにあった」と言える証明がされている気もする。
昔ドバイのルーヴルで見た向かい合う筋肉の隆起したまるでシルクを本当に纏っているかのような彫刻は、今にも動き出しそうな、下手すると3Dモデルがそのまま浮き出しているような「生々しさ」
確かに断面ってどこかこう、いいですよね。
「そこにあった跡」が欠けてから分かるって、完璧であった時では得られなかったものなのかもしれない。
作られた瞬間が最高傑作のはずが大半が朽ち果て砕けた末に残ったものなのに、それに対して何も背景を知らない消費するものとしてアートをむさぼる大衆から勝手に感情移入されていることを知った芸術家はどう思っているのだろうか。今や映えの一部として消費されている自撮りに添えられる絵を描いた万能の天才、ダヴィンチは何を思っているのだろうか。
仮に自分が芸術家なら、精巧に彫り上げた五体満足の体を砕く瞬間を写真に納めて残ったどこかを発表するかもしれない。砕ける瞬間の写真をどこかに添えて。
批評家気取りの素人の感想って難しい言葉を覚えたばかりで使いたがる中学生みたいで可愛いですよね。好きです。そんな感じの自分のことなんて全く知らない他人の甘美な感想を隣で聞いて笑ってみたい。
今でも俺だって画力と胆力があればバンクシーになれたんだぞと思ってしまう浅ましさが自分の中に居座っている。美術が原因で留年しかけた口が何を言っているのやら。
失敗体験があったからこその成功。ではなく、泥臭さとかもなく、ただ、そこに在ったことだけを示すものにどこか気持ち悪さと共感を覚える。
となると展示されている欠損した彫刻と全て綺麗に揃っている彫刻ではどちらの方が美しいのか? それは色々と比べる意味合いとか意義が変わってくる。
ドーナツとして完成してこそのドーナツなのか、それとも穴があって初めてドーナツとして認識されるのか。じゃあ半分に割られて完成された穴が半月のような片割れとなったドーナツのドーあたりのものはドーナツなのか。
ドーナツはドーナツだからドーナツだ。そこにドーナツ以外の何かを挟む余地はない。それもまた、ドーナツ。
ドーナツは人生だ。みたいなことを言えるほどウィットに富んだ言葉を書き連ねることができないけど、多分ドーナツは人生だしきっとなんでも人生にこじつけられるだろう。
この調子でいけば心理学は人生だし目の前にあるぬいぐるみも人生だし今右手のそばにあるマウスだって人生だ。
自分はどこが欠けたら自分を自分たらしめることができるのか。もしかすると既にどこか欠けているのかもしれないしむしろ既に欠けていることを祈りたい。
でももしも、既に欠けているものが戻ってきたらそれはこれまでの自分なのか。完成している存在である完璧な自分に価値はあるのか?
それでもこの空洞と欠損にこそ本質があるかどうか。いわば存在証明は考える間に胃の中に消えてしまいそう。穴も全て丸ごと消えてしまいそう。それこそが、ドーナツ。
きっと胃の中に入ってこそドーナツはドーナツ。
クリスピードーナツならオリジナルが、ミスタードーナツなら…ミスドなら…ミスド難しいな…あの黄色い粒々がついてる黒いやつが割と好きです。
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