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夏の始まり 雨の終わり

 幼いころから何となく雨が降る日は匂いで分かった。いつもどこか甘いような、そして生茂る草木のような緑の匂いがした。
 自分以外にもこの匂いはするものだと思っていたから、よく周りの人にそのことを口にして不思議がられていた。
 将来は天気予報のお姉さんにでもなろうかなと考えたこともあった。しかし、そんな夢もほんの束の間のものであった。
そうしてだらだらと月日は過ぎ、子ども扱いされる年齢もとっくに過ぎてしまった。大学に入ってからは2年が過ぎたが、特別やりたいことはない。
 今日もこうして外に出てきたが、特にやることはない。ただこの街を歩こうと思って部屋を出てきた。今日は雨が降る。この匂いの感じからして、2時間後くらいに降ってくるだろう。
 それまでには戻るつもりではあったから、傘は持ってこなかった。
 家の前から続く坂道の向こう側には、大きな入道雲が見えている。夏風が私の肌を掠めて行く。じっとりとした風からは少しいつもの匂いがした。眼前の雲は形を変えながら横に広がっていった。あそこの下はきっと雨だ。
 坂道を上った通りには様々な店が開かれている。歩くたびに異なる匂いが漂ってくるこの通りが私は好きだった。すれ違う人々の中には傘を持って歩いている人も見受けられる。
 あの匂いがなくとも、みんなには天気予報があるのだ。それでも、まだ私の感覚の方が正確ではあると思う。そういえば、この頃は天気予報を見なくなってしまった。たぶんこれからももう見ることはないのだろう。
 ふと視線を動かした先に見慣れない店があった。中を覗くと棚にはたくさんの香水が並べられている。ひとつひとつのデザインはとてもシンプルで、洗練されている。
 店内には若い店員が1人いるだけで、それ以外に人はいなかった。気がつけば長い間そこにいた。ずっと何かを考えていたようでもあるが、自分にもよくわからなかった。時計の短い針は二周目を刻もうとしていた。
 外では雨が降り出している。雨粒が地面に弾ける音が聞こえてくる。通りの人はほとんどいなくなっていた。
 ひとつ気になっている香水があった。ここに入ってからずっとその香りが、どこかでしている。あの香りだ。雨の前にいつもしているあの香りがあった。
 この香りを纏わせたら雨はもうわからなくなるのだろうか。
それでもよかった。それも面白いかもしれない。
 だから、それを買って店の外に出てみた。上に向かってそれを一振りする。途端にいつものあの匂いが体を包んだ。今の私は雨の匂いがする。
「もうすぐ止みますよ」
 突然、隣から声をかけられた。先程の若い店員だった。彼は雨空を見上げて私の隣に立っていた。
「何となく匂いでわかるんです」
 青年はそう続けた。そうなのかと思った。たぶんそういうのだから止むのだろう。
「そう」
ただ一言だけ返した。それならもう少しここで待つことにしよう。何だか面白いことが起きるような気がしていた。
雨の終わりはすぐそこまで来ているのだから。
 
 

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