【ショートショート】空に落ちちゃった (1,472文字)
三歳の甥っ子を上野動物園に連れて行った。毎年、妹夫婦は結婚記念日に二人きりで過ごすため、わたしに子守りを頼んでくる。まあ、甥っ子は可愛いし、別にいいんだけど、こっちは彼氏もいないというのに、平日の昼間からなにやってんだろうって思わなくはなかった。
パンダを見た。ぐったりと横たわり、気怠そうに笹を食べていた。甥っ子はガラスに鼻をこすりつけながら、
「お休みなのかな?」
と、つぶやいた。
いやいや、パンダはちゃんと働いているよ。バイトしていた居酒屋がつぶれてからというもの、わずかな貯金を食いつぶしながら、布団の中で一日の大半を過ごすおばさんとは違うんだよ。と、自虐が勝手に湧いてきた。
げんなりしているわたしをよそに、甥っ子はボールのようにコロコロ、他の動物探して駆けていく。まったく。その小さな身体のどこにエネルギーを貯蔵しているんだか。
園内だから交通事故には遭わないだろう。ただ、見失うのは恐ろしい。気づけば、あっちへこっちへ、わたしも走らされていた。
ペンギン、カンガルー、レッサーパンダ。甥っ子は指差し、名前を呼んでいく。
「詳しいね。本を読んで覚えたの?」
「ううん。YouTube」
なるほど、そりゃ博識になるわけだ。ハダカデバネズミにも驚かず、ハシビロコウと睨めっこをしていた。三分後、アハハと甥っ子は負けを認めた。
キリンは怖いらしい。
「なんで?」
「でかいから」
サイも怖いらしい。
「なんで?」
「角があるから」
たぶん、柵の安全性を信じてはいないのだろう。若い割に慎重だった。でも、サイのことは好きらしく、おっかなびっくり近づいていた。
「こら、掴まない。危ないよ」
「大丈夫」
「なに言ってんの。こっちに来なさい」
引き剥がすため、歩み寄ったところ、顔に冷たいものがぴしゃんとついた。最初、雨が降ってきたんだと思った。
「うんちだ。うんちだ」
甥っ子が騒ぎ始めて、サイが尻尾を使ってフンを撒き散らしてきたのだと理解した。わたしたちは全身、クソまみれになっていた。
もう嫌になってしまった。
「帰るよ」
「やだ」
「汚れちゃったんだよ。早く、家に帰って、シャワー浴びなきゃ」
「まだ動物見たい」
「じゃあ、置いていくよ」
もちろん、脅し文句に過ぎないが、本気で帰りたくもあったので、けっこう怖い口調になってしまった。甥っ子の顔に諦念の色が浮かんだ。
「だったら、風船買って」
唇を尖らせ、甥っ子はわたしの後ろを指差した。振り返ると売店があり、パンダの風船がぷかりぷかりと浮かんでいた。
「わかった」
交渉成立。楽勝とばかり、わたしは店員に風船を頼んだ。すると、千五百円ですと言われてしまった。高い。高過ぎる。
しかし、いまさら約束を反故にできない。一瞬、甥っ子の様子を見てみたけれど、相変わらず不機嫌そうに頬を赤くさせていた。
仕方ない。二千円を払って、お釣りに五百円玉をもらった。一緒に風船も手渡された。
「はい。どうぞ」
五秒後には甥っ子の手に握られていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
へー、偉いじゃん。ご褒美にジュースでも飲ませてやろう。そう思って、手のひらの中の五百円を自販機に入れようとしたときだった。
「あー」
甥っ子が悲しい声をあげ、腕を天に向かってまっすぐ伸ばし、茫然自失、固まってしまった。見れば、パンダの顔が太陽に引き寄せられていた。
可哀想に。うっかり、滑ってしまったのだろう。値段的にもうひとつは買えないし、どう励ましたものかと悩んでいたら、甥っ子は、
「風船、空に落ちちゃった」
と、笑顔ではっきり言った。
なんか元気出た。
(了)
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