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【ペライチ小説】_『娘帰る』_23枚目

 一人、ひっそり困っていると、突然、湿った匂いが漂ってきた。

「あれ。雨」

 わたしの口から無色透明で軽い言葉がふわりこぼれ落ちると、おばあちゃんは鼻をくんくんさせて、慌てた様子で立ち上がった。

「あ。洗濯物。干しっぱなし」

「マジか。ヤバいね。手伝おうか」

「大丈夫。ゆっくりしてて」

 腰をあげつつ、わたしはそれ以上食い下がることをしなかった。さっきの洗い物のときとは打って変わって、背もたれ深く体重を預け直した。いまはただ、思考の海にじっと沈んでいたかったのだ。

 まもなく、おばあちゃんはそそくさと階段をのぼり、洗濯物が待っている二階の方へと姿を消した。

 ふーっ。ため息をつき、ポットに残っていたほんのちょっとの紅茶をもらった。すっかり冷たくなってしまって、さすがに渋さが際立っていた。飲めば飲むほど喉が渇いた。でも、それぐらいがいまのわたしにはちょうどよかった。緊張から解放されて、だらり、心がほぐれてしまった。いつもだったら考えないようなことが頭をもたげて仕方なかった。意識するとなく、思いがけない気持ちのうねりが、ぽつりぽつり、胸の中を去来した。

 もしかして、お母さん、寂しいのかな。弟が就職し、実家を出て行くことになったら、春から母親は一人ぼっちになってしまう。家族みんなで暮らした部屋にたった一人。いままで意識しないようにしてきたけれど、そんなの、寂しいに決まっていた。

 それは仕方のないことではあった。わたしたち姉弟だって、いつまでも母親と一緒に暮らしてはいけないのだから。ただ、母親は何十年も母親として生き、子ども二人をほとんど女手ひとつ成人させた。なのに、最後の最後でそんな仕打ちが待っているなんて、たしかにつまらな過ぎる結末だった。もし、わたしが母親だったら、決して受け入れられるはずがなかった。

 身体の中が澱み始めた。空気を入れ替えるため、わたしは大きく息を吸い込み、ひたすら長く吐き出した。節々のだるさが目立った。できるだけ遠くへ全身を伸ばしたくなった。テーブルの上に置いてあるものを脇に寄せ、前方へ大きく身体を突っ張った。気持ちよかった。自然な動きで頭を腕と腕の間に落とし切り、

「あぁ」

 と、情けない声が漏れてしまった。あくまで、それはごく一般的なストレッチであり、別にやましいことをしているつもりはなかった。それでも、

「なにしてるの」

 と、声をかけられたときにはちゃんと驚き、慌てて顔を上げてしまった。正面に洗濯物を抱えたおばあちゃんが突っ立っていた。ニヤニヤ、嬉しそうだった。

「なに。肩、凝ってるわけ。マッサージしてあげようか」

「いいよ、別に」

 あら、そう、なんて残念そうに、おばあちゃんは和室の方へと消えていった。くちゃくちゃに丸められた洋服が重たいからか、

「どっこいしょっ」

 と、つぶやく声が聞こえてきた。

「ねえ。畳むの、手伝おうか」

 返事はなかった。聞こえていないんだと思って、同じフレーズを繰り返そうとしたけれど、やっぱり、身体を動かす気にはなれなくて、わたしは「ゆっくりしてて」の言葉に甘えさせてもらうことにした。



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