【映画感想文】「欲望の三角形」で男同士がホモソーシャルに球を打ち合うサイコーに痺れるテニス映画だった! - 『チャレンジャーズ』監督:ルカ・グァダニーノ
先日、BlueSkyで『ドライブアウェイ・ドールズ』の感想を投稿したら、他にも「サイコー」な映画があるよと教えてもらった。
それが『チャレンジャーズ』だった。
一応、予告編は見ていて、テニスを題材にした映画なんだということは知っていた。ただ、勝手にスポーツものと思い込み、スルーしていた。
ところが、調べてみれば、監督はイタリアのルカ・グァダニーノじゃないか!
この人は『ミラノ、愛に生きる』のときはフロベールの『ボヴァリー夫人』を題材に恋愛を通してアイデンティティ確立の過程を描き、『君の名前で僕を呼んで』のときはエイズ問題が表面化する前の世界を舞台に同性愛の持つ親密性を描き、恋愛の多面性を表現するのがとにかく上手い。
してみれば、『チャレンジャーズ』も一筋縄ではいかない映画なのではないかと俄然、興味が湧いてきた。
で、見てきた。やはり一筋縄ではいかなかった。
表向き、若い頃にダブルスを組んでいた才能ある二人の男性テニスプレイヤーが一人の女を巡って仲違い。彼女と結ばれた方は世界トップの選手としてか活躍するも、現在、スランプ気味でランキングを落としている。もう一人は落ちぶれた選手として再起をかけようとあがいている。
そして、二人は数年ぶりにウィンブルドンなどの国際大会の切符をかけたチャレンジャーズ大会で顔を合わせる。殺したいほど憎み合っている二人は球を打ち合う。その様子を不安そうにヒロインである女は見ている。右へ、左へ。顔を動かし、次に自分はどちらの男のものになるのだろう、と。
これはもうわかりやすく、「欲望の三角形」の話だった。
フランス出身の文芸批評家ルネ・ジラールが文学作品を通して、人間の欲望は対象を純粋に求めているわけではなくて、他者の欲望を模倣する形で現れるとその構造を分析した。
例えば、クラスで一目置かれている女の子が好きと表明しているアイドルグループが輝いて見えるようなこと。食通が褒めているお店に行ってみたくなったり、情報通が評価している本や映画を読んでみたくなったり、わたしたちは尊敬している人が凄いと言っているものは凄いと感じてしまう傾向があるのだ。
このことをルネ・ジラールは著者『欲望の現象学』の中で「欲望の三角形」と名付けた。
セルバンテス『ドン・キホーテ』では、騎士道物語にはまったドン・キホーテが騎士たちの行動を模倣しているが、彼の従者となったサンチョ・パンサはそんなドン・キホーテを模倣している。なのに、二人ともそのことには無自覚で、自分がそれを望んでいるのだと信じ切っている。
このとき、他者の欲望を借りているにもかかわらず、そう望んでいるのは自分自身と混同してしまう姿にルネ・ジラールは注目した。
他にも『ボヴァリー夫人』で恋愛小説や新聞記事で読む華やかな世界に憧れた真面目な妻・エンマが不倫にハマり、散財し、破滅していく様子だったり、スタンダール『赤と黒』でナポレオンのようになろうと頑張った若者ジュリヤン・ソレルが成り上がるための過程で恋に溺れる様子だったり、近代小説ではたびたび「欲望の三角形」が現れることを発見した。
特に、プルースト『失われた時を求めて』の中で唯一、三人称で描かれる第1編の第2部「スワンの恋」におけるスワンが高級娼婦オデットを好きになるシーンは際立っている。
初対面でオデットをつまらない女と思っていたスワンだったが、あるとき、彼女がボッティチェリの絵画に描かれた女に似ていると気がつき、途端に魅了されていく。本来、それはボッティチェリが望んだ美しさであり、スワン自身が望んだものではないはずだった。だが、ボッティチェリを尊敬していたスワンは同じものを望むようになり、いつしか、自分の欲望としてオデットにのめり込んでいく。
この考え方はその後、広告業界で応用されることになる。歌手でも俳優でもスポーツ選手でも、多くの人に憧れられているスターに「この商品を愛用しています」と言ってもらうことで、そのスターを尊敬している人たちに「わたしもこの商品がほしい!」と思わせることがまだできるからだ。
やがて、この「欲望の三角形」は逆の動きもあり得るということがわかってきた。つまり、同じものを欲望している同士で絆が生まれてくるということだ。
趣味が同じだと仲良くなれるのはそのためである。現代では友情も恋愛も、多くはその一致から始まる。現実世界で出会うにしても、ネット上でマッチングするにしても、なにかしら欲望が一致しなくては話を始めるきっかけが持てない。
逆に言えば、共通の欲望を演出することで、他者との距離を縮められるわけで、政治家も芸能人もYouTuberも詐欺師も、好感度を上げるためにありふれたものが好きなアピールを欠かさない。コンビニやチェーン店のメニューを褒めるのはそのためである。「わたしもそれ好き」は「わたしはあなたが好き」に移り変わっていく。
その発展型として、アメリカの文学研究者・セジウィックは『男同士の絆』の中で、男たちのホモソーシャルが成立するためには欲望の対象となる共通の女が必要なのだと説明した。
ホモソーシャルというのは、女性や同性愛を排除することによって作られる男性中心社会のこと。
(なお、その後の研究で腐女子や宝塚ファンなど、女性中心社会でも同様の現象が見られることが指摘されている)
ものすごく紋切り型だけど、成功者が美人と付き合うことで、他の男たちに自分は格上なんだと示すような感じ。これによって男たちは共通の目標を追いかける仲間同志となり、絆は深まっていく。
よくあることだけど、分析していくと面白い。というのも、「お前らの憧れの女は俺のものだ」とアピールするということは、成功者の興味はその美人ではなく、その美人に憧れている他の男たちに向かっているからだ。そのため、成功者の妻となる美人は「トロフィーワイフ」としばしば揶揄される。
これぞ、まさに「欲望の三角形」で、別に自分が欲しいものなんて存在せず、我々はみんなが欲しいものを欲しがっているに過ぎない。
仮にそうだとしたら、奇妙な話になってくる。あらゆる欲望が模倣なのだとしたら、最初の欲望はどこから来ているのか?
恐らく、身近な人たちに尊敬されたい。それがすべてなのだろう。
さて、長々と「欲望の三角形」について説明してしまったが、映画『チャレンジャーズ』はまさにそんな共通の女を欲望することを通して、男同士の絆が深まっていく様子を描いた作品だった。
ただ、そこは流石のルカ・グァダニーノ。ヒロインを単なる「トロフィーワイフ」の枠組みに押し込めるのでなくて、主体的に行動する一人の人間として描き切っていた。言うなれば、追われる存在ではなく、追わせる存在になるという意志を感じた。
そのことを象徴する最高に笑えるシーンがあった。
メインキャラクターの三人が高校生だった頃、大会の宿泊先で夜、同じ部屋に集まる。男たちの期待に応えて、ヒロインは両方とキスをする。そして、そのままベッドに移動し、交互にキスをしているうち、三人の顔がぐしゃぐしゃに絡み合っていく。
まさか3Pが始まるのではと興奮した男二人は目を閉じ、キスを止められなくなる。だが、いつの間にかヒロインは離れたところでニヤニヤしている。
そう。女と濃厚なキスをしているつもりが、実は、男同士で激しく舌を絡ませて合っていたのである笑
演出として巧みなのはその様子をヒロインが楽しんでいること。要するにこれはBLを嗜む視点であり、その後、ヒロインが自らのキャリアをその男たちに依存してしまうことを踏まえれば、女性とホモソーシャル(ここでは男性中心社会を意味する)の関係性の複雑さが見事に描き出されてきた。
当事者としてホモソーシャルに向き合うのはしんどいけれど、客観的にそれを眺めることに喜びはある。従って、現実の人間関係として男性中心社会が嫌いでも、フィクション世界で男たちのつながりを好むということに矛盾は生じない。
これはなにもホモソーシャルに限った話ではない。現実世界でなにかを否定していたとしても、フィクション世界ではそれを愛することができる複雑性を人間は持っている。
戦争に反対していても、戦争映画を面白いと感じることは可能だ。性犯罪を撲滅したいと願いながら、過激なアダルトビデオを楽しめる。迷惑系インフルエンサーや週刊誌のスキャンダル報道に眉を顰めつつ、その投稿内容にワクワクしてしまう。
このズレが共存し得るところに、本当の意味で「表現の自由」があるとわたしは思う。『チャレンジャーズ』という映画はそのことを示すべく、果敢な映像表現にチャレンジしていた。
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