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【映画感想文】誰も殺したくないヴァンパイア少女は飢え死に寸前! でも、死にたがりの男子高校生と巡り合うことができて…… - 『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』監督: アリアーヌ・ルイ・セーズ

 小学生の頃、わたしはヴァンパイアになりたかった。ヴァンパイア小説『ダレン・シャン』が好き過ぎて、実話と書いてあるのを本気で信じ、自分もヴァンパイアになると心に決めていたのだ。

 それも密かではなく、公言もしていた。学校で将来の夢を聞かれたら「ヴァンパイア!」と堂々答えていた。めちゃくちゃ痛い子どもだった。

 ヴァンパイアがいないと知ったのは小4のときだった。サンタクロースがいないと知ったのも同じ頃で、この世界は嘘だらけだとそれなりに絶望した。というか、散々、ヴァンパイアの話をしてきた自分のこれまでを振り返り、死ぬほど恥ずかしくなってしまった。

 で、ヴァンパイア好きは封印してしまった。その後、『トワイライト』シリーズのブームとかあったけれど、横目に見ていた。たぶん、面白いんだろうなぁと感じながらも、なんとなく避けていた。でも、萩尾望都の『ポーの一族』は読んだ。これはもはや古典って感じ。教養を身につけるためって雰囲気を醸し出せると勝手に思い込んでいた。

 つまり、わたしはずっとヴァンパイアを意識して生きてきたのである。そんなに網羅はできていないけれど。

 だから、映画館で『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』の予告編が流れたとき、反応せずにはいられなかった。

 まず、タイトルが良過ぎる。直訳すると「ヒューマニストなヴァンパイアは自殺志願者を探している」だもの。そそられる要素しかない。

 普通、ヴァンパイアは怪物であり、人間を襲う存在と相場が決まっている。なのに、人間に恋をしてしまったり、友情を感じてしまったり、掟を破る形で異種間交流が繰り広げられるドキドキが面白い。

 してみれば、ヒューマニスト、つまり、人間愛で弱者を慈しむヴァンパイアという設定はほどよく斬新で興味が惹かれた。

 その上、人を殺さないヴァンパイアの見た目は少女であり、彼女が出会う相手は死にたがりの男子高校生というのだから、気になって仕方なかった。

 また、細かいことではあるけれど、使用言語がフランス語というのもポイントが高い。別に聞き取れるわけではないけれど、なんか英語より響きがカッコいい気がしてしまう。

 はっきり言って中二心をくすぐられた。それは不思議な感覚で、見たいんだけど、いい年をしてこんなものを見るなんてという葛藤にドギマギとした。

 もちろん、これは一般的な悩みではない。個人的なものだった。かつて、ヴァンパイアになろうとしていた幼い微熱がぶり返してきそうで居た堪れなさに襲われるのだ。

 たぶん、20代だったらモヤモヤとスルーしていた。でも、わたしも30代。なんか、そういうポジティブもネガティブも一切合切が懐かしくもあり、「ままよとて!」の精神でチケットを購入していた。

 結果、見てよかった。めちゃくちゃ好きなタイプの映画だった。もし、リアルに中二で見ていたら、狂おしくハマっていたと思う。大人でよかった。危ないところだった。

 ヒューマニストなヴァンパイアを演じたサラ・モンプチが可愛過ぎた。前髪オン眉で仏頂面がグッとくる。このままじゃいけないと焦りながらも、どうしていいかわからなくって、無謀な振る舞いに出てしまう大胆さに目が離せない。

 彼女はヴァンパイアなのに、幼少期のトラウマがきっかけで人間を一度も襲ったことがない。でも、人間の血を飲まないと生きていけないので、親が取ってきてくれた血を飲ませてもらっている。いわゆるニートというやつなのだ。

 このあたり、設定がよくできている。

 ニンニクや十字架が苦手とか、太陽の光がダメとか、心臓を杭で打たれたら死ぬとか、ヴァンパイアには作品を問わず共通の特徴があるけれど、ゾンビみたいに噛んだ相手もヴァンパイアになるという法則もある。

 そのため、通常、ヴァンパイアはターゲットの血を吸いきって殺してしまう。やたらめったら仲間を増やせば、競争が激しくなってしまうので、人口抑制に努めているのだ。

 この作品はここに目をつけた。つまり、ヴァンパイアたるもの、空腹を満たして生きていくために人間を殺すしかないという点に。

 でも、音楽を愛する彼女はそれを作り出した人間を愛してしまう。だいたい、他人の命を奪う権利など自分にはないと考えてしまう。誰かを殺すぐらいなら死んだ方がマシと言ったりもする。ただ、お腹が空けば、家の冷蔵庫に入っている血液のストックに手を伸ばしてしまう。

 これには両親も参ってしまう。みんな、猟奇殺人なわけではなくて、家族が食っていくために人を殺しているだけ。その恩恵に与りながら、倫理を説こうとしてくる娘に腹が立ってしまう。だいたい、血を吸うにしても罪のない子どもを狙ったりはしない。できるだけクズな大人を選んでいるのだ。

 加えて、先々を考えて不安にもなっている。ヴァンパイアの寿命がいくら長いとは言え、娘より長生きはできないだろう。だとしたら、わたしたち両親が死んだ後、人を殺さない女はどうなってしまうのか。

 そして、親戚のおばさんに相談し、荒療治を決行するに至る。彼女を従姉妹と同居させ、自力で人間を殺すまで血液を与えないことにするのだ。

 このあたり、様々な比喩が重なってくる。先に挙げたニートの例もそうだし、食肉加工の現場を知らないままスーパーでお肉を買って食べているわたしたちもそうだし、ファストファッションがどのような労働環境で生み出されているか知らないまま安い服を買っているわたしたちもそうだし、というか現代の先進国で生きる多くの人々がヒューマニスト・ヴァンパイアなのかもしれない。

 自らの手は汚したくない。でも、汚さなくては生きていけない。そんなにっちもさっちも行かない状況で彼女が出会ったのは死にたがりの男子高校生だった。

 自殺を試みるもうまくいかない彼は彼女に殺してほしい持ちかける。それなら君は抵抗を感じることなく血を吸えるわけでWIN-WINの関係だろ、と。

 この合理的な提案に彼女も重たい腰を上げるわけなのだけど、急死に一生を救ってくれる相手に対し、ヒューマニスト・ヴァンパイアが好意を持たないはずもなく……。

 究極の選択を前にして、心の機微が丁寧に描かれていた。

 一応、全編、ポップに仕上げられていたので、なんとなく楽しい雰囲気だった。でも、ヒューマニスト・ヴァンパイアが生きるために自殺志願者の命を頂くというテーマはかなり尖っている。端的に言うなら安楽死を巡る話につながってくる。

 通常、安楽死が肯定されるのは自らの命をどうするかは本人が決めるべきという自由の文脈からだ。耐え難い痛みに我慢するより、楽になりたいと望み、決断する権利が人間にはあるはずという主張は力強い。

 これに対し、反論があるとすれば、その決断は本当に主観だけで行えるのかという疑問に端を発する。2022年公開の邦画『PLAN 75』はまさにそのことを扱っていた。 

 社会保障費の増加や年金制度の破綻によって、若者の生活が限界を迎えた近未来の日本を舞台に、超高齢化社会の解決策として、75歳で自ら生死を選択する制度が導入されるというSF作品だ。

 建前としては自ら選ぶと謳っているけれど、政府はメディアを使って、死を選んだ高齢者を讃えるプロモーションをかけまくる。加えて、死を選んだ人たちは豪華クルージングや海外旅行に無料で参加できるなど特典もいっぱい。夫婦や仲のいい友達と本当の終活をするのがブームとなる。

 こうなったとき、死を選ばなかった高齢者は身勝手なやつらと批判される空気が世の中に蔓延してしまう。ただ、普通に生きているだけなのに、75歳以上というだけで後ろ指をさされてしまう。

 そんな状況で自ら死を選ぶなんてことは不可能だ。他人に迷惑をかけたくないという謙虚な気持ちを利用され、死を選ばされてしまう怖さがある。ぶっちゃけ、そこに自由は一ミリも存在していない。

 なので、安楽死の有効性を認めつつも、社会制度として取り入れることに慎重な人々は多く、未だ、ほとんどの国では法整備が進んでいない。でも、どうしても安楽死を望む当事者はいて、可能な国へ移動し、自らの命に終止符を打っている。最近だと映画監督のゴダールが安楽死を選んだと報じられ、世界的に話題となった。

 さて、これらを踏まえたとき、ヒューマニスト・ヴァンパイアと自殺志願者の関係は健全と言えるだろうか?

 なるほど、ある段階まではイエスと言えるけれど、それは自殺志願者側の供給量が多い場合に限られる。要するに、その取引の主導権が自殺志願者側にあるなら自由に基づく選択であると言えるわけだ。

 しかし、需要が上回った瞬間、事態は一変してしまう。ヒューマニスト・ヴァンパイアがボランティアで自殺志願者を救っているならともかく、実際は上を満たすことを目的としている。血を吸わなくては生きていけない以上、需給バランスが崩れてしまえば、積極的に働きかけざるを得なくなる。

 その際、自らの罪を覚悟して、自殺志願者以外を殺す形でヒューマニスト・ヴァンパイアを降りる者も出てくるはずだ。ただ、本作の主人公みたいにそれができない生粋のヒューマニスト・ヴァンパイアは自殺志願者しか相手にできない可能性がある。すると、自殺志願者の定義が歪んでしまうかもしれない。自殺をするか迷っている人の背中を押すぐらいのことはしてもおかしくない。

 ここにヒューマニストの矛盾がある。加害行為から距離を置こうとしているつもりが、気づけば、知らぬ間に自分が加害を行っている側になってしまうかもしれないのだ。

 これ自体がいいか悪いかは置いておいて、どこまで無自覚でいられるかが問われてくるだろう。つまり、こうすることが正しいと信じ切って、盲目的に突き進んでしまうことをよしとするか、あえて、己のヒューマニズムに批判的な視線を向けることができるか、その違いで賛同を得られるかの違いが出てくる気がする。

 もし、ヒューマニスト・ヴァンパイアのその後が描かれるとしたら、そのあたりの迷いを見てみたい。




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