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【読書コラム】「ウソみたいな本当の話がウソだったけど、それはもう本当なのだ」とバカボンのパパみたいなことを思った - 『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』エーリッヒ・ショイルマン(著), 岡崎照男(訳)

 去年、村上春樹の新作を読んだとき、気になる一節があった。『パパラギ』という奇妙な本を巡るやりとりだ。

「『パパラギ』という本を読んだことはありますか?」
 イエロー・サブマリンの少年は私にそう切り出した。地下深くの小部屋で、私と彼はロウソクの炎を間に挟んで座っていた。
 私は言った。「若いころに読んだよ。かなり以前のことなので、細かいことは思い出せないけれど、たしかサモアのどこかの島の酋長が二十世紀初頭に、ヨーロッパを旅行した体験を故郷の人たちに向けて語るという内容だったと記憶している」
「そのとおりです。ただしこれは今日では、ドイツ人の著者が、酋長の語りという形式を借りてつくりあげた、純粋なフィクションだと判明しています。いわゆる偽書です。しかしこの本が多くの人々によって手に取られ、読まれた時代には、本物の手記だと思われていました。無理もありません。よくできた、そしてユーモアと叡智に満ちた近代文明への批評になっていますから」
「ぼくもてっきり本物だと思っていたな」と私は言った。
「本当でも偽物でも、そのへんはもうどちらでもいいことです。事実と真実とはまたべつのものです。

村上春樹『街とその不確かな壁』636-637頁より

 わたしは『パパラギ』を読んだことがなかった。でも、たぶん、こんな感じなんだろうなぁってイメージは湧いた。

 高校生の頃、倫理の先生が『ブッシュマン』という映画を見せてくれた。(現在は差別的な名称であるとして、『コイサイマン』と改題されている)がパイロットが飛行機から捨てたコーラの空き瓶をサン族の人が拾うところから始まるコメディ。サン族の人たちはコーラなんて知らないので、空き瓶の斬新な使い方を思いつく。授業ではこのようなシーンを通して、我々の固定観念をひっくり返そうという意図があったようだ。

 ただ、なんとなく、わたしは嫌な気持ちがした。たしかにそれは近代的な文明を批判し、部族の人たちを凄いと褒めてはいるけれど、ちょっと都合が良過ぎやしないかと違和感があった。

 実際、この映画はフィクションであり、結論ありきですべてが組まれているのは大前提。そこにケチをつけるのは野暮なのかもしれない。だが、これを授業に使った先生も、感想を述べ合っているクラスメイトたちも、まるでノンフィクションのような語り口だったので怖さを覚えた。

 最近は減ったけれど、むかしの評論は西洋と東洋を対比させることが多かった。山崎正和の『水の東西』はその代表格で、現代国語の教科書を通して広く教えられてきた。日本の鹿おどしは水を流れるまま捉えようとしているのに対して、西洋の噴水は水を一定の形で固定化しようとしている。そこから自然に任せようとする東洋思想、自然をコントロールしようとする西洋思想の違いが見えてくるといった論だった。

 二項対立に持ち込むと、話が理解しやすく、説得力があるので、なるほど、そういうものかと思ってしまう。たぶん、むかしは世界がつながっている感覚も薄かったので、へー、で終わらせてよかったのだろう。

 しかし、いまや、グローバリズムが進みまくって、どの国にいようと生活の基本はそう変わらなくなってきた。資本主義が当たり前となり、大国を中心とした論理で政治と経済の方向性が決まっていく。スマホは若者たちのカルチャーを分散させる役割を果たし、国や文化レベルでの比較は意味をなさなくなってきている。

 このことをラテンアメリカの文学者たちはいち早く認識し、90年代には「クラック宣言」なるものを発している。

 今年、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の翻訳が新潮社で文庫本になる。ラテンアメリカ文学の傑作として知られ、60年代ブームを巻き起こし、世界文学の中心的存在になった。特に日常と魔術が渾然一体となったマジック・リアリズムのインパクトは大きく、その技法はラテンアメリカ文学の代名詞となってしまった。

 結果、ラテンアメリカの作家たちはマジック・レアリズムを期待されるようになった。常に土着的な物語が求められ、普通の現代劇を書いたとしても正当に評価されることはなくなってしまった。

 いわば、一発ギャグで売れた芸人が漫才をやっても、コントをやっても、なかなか認めてもらえないのと一緒。それによって得られるものも多いけれど、失うものも多く、次世代の作家たちはこの呪縛に苦しめられた。

 そんな状況を打開するため、彼らは「クラック宣言」を発した。そして、『百年の孤独』の舞台である架空の町・マコンドをもじった短編アンソロジー『マッコンド』を出版。序文にはこのようなことが書かれている。

 マッコンドMcOndoという名前(登録商標?)はもちろん、冗談、皮肉、おふざけである。マッコンドは本物のマコンドMacondo(といっても、それはそれで実在てまはなく仮装存在なのだが)と同じぐらいラテンアメリカ的でありかつ魔術的(異国情緒たっぷり)である。我々のマッコンド国の方が大きく、人口過多で、大気汚染だらけで、自動車道や地下鉄、ケーブルTVが整備されており、スラム街がある。マッコンドにはマクドナルドが、マックのコンピューターがある。マネーロンダリングで建てられた五つ星ホテルや巨大ショッピングモールに加えての話だ。マッコンドでは、マコンドでと同様、何でもありだが、もちろん、我々の国では人が空を飛ぶとすれば、それは飛行機に乗るからであるし、でなければドラッグをやったいるからだ。(Fuguet y Fómez, "Presentactión del país McOndo", Alberto Fuguet y Sergio Gómez eds., McOndo, Mondadori. 1996, p.15)

放送大学教材『世界文学への招待』170-171頁

 これは1996年の話。Windows98が発売される前のこと。以来、インターネットの普及で文化の差は日夜埋まり続けてきた。

 なのに、未だ、テレビでは定期的に部族だったり、アフリカだったり、日本より文化レベルが劣っているという前提で、遥々日本のものを持っていき、映画『ブッシュマン』さながら、独自の使い方を引き出す番組が作られている。

 その目的は笑いものにすることかもしれないし、価値観の転換かもしれないし、日本の素晴らしさを再確認することにあるのかもしれない。いずれにせよ、自説を押し通すため、他者を利用していのは間違いなく、その過程で事実を歪めている可能性を考えるとなかなかに暴力的だ。

 しかし、なぜ、我々はそこまでして未開の部族に新しい視点を提示してもらいたいのだろうか。その秘密を探るべく、『パパラギ』を購入し、読んでみた。その序文は以下の通り。

パパラギ(口にするときはパランギ)とは
白人のこと 見知らぬ人のこと
でも 言葉どおりに訳せば
点を破って現れた人
はじめてサモアに来た白人の宣教師が
白い帆船に乗っていた
遠くに浮かぶ白い帆船を見て
島の人たちは それを天の穴だと思った
白人が その穴を通って彼らのところへやって来た
ー 白人は天を破って現れた

エーリッヒ・ショイルマン『パパラギ』3頁

 すべて創作なので、作者に白人を神に見立てる意図があるのは明らかだ。それから、酋長ツイアビは白人世界を旅して回り、お金を重視する意味のなさ、消費社会のバカらしさ、機械中心主義の恐ろしさ、仕事ばかりで人生を楽しむ暇をなくしている矛盾など、現代社会に警鐘を鳴らしまくる。

 そのメッセージはどれも鮮やかで、あまりにも見事過ぎる。まえがきとあとがきを読むと、まだウソだと判明する前に書かれたものなので、驚愕の声が並んでいた。かつ、『パパラギ』を引用しながら、自分が所属する社会に対する不平不満を述べていた。

 どうやら、このあたりに、『パパラギ』が実話として受容されてきた秘密があるらしいとわたしは直感した。要するに、いまいる環境と外部世界を二項対立の関係に置く上で、異文化はめちゃくちゃ便利なのだ。

 己の文化について語るの難しい。肯定でも、否定でも、その中に自分がいる限り、ポジショントークになることを免れ得ない。

 そういう意味では、村上春樹が書いているように、『パパラギ』が本物だろうと偽物だろうと、本質的にはどうでもいいのだろう。事実ではなくても、そこで描かれていることは十分に真実なのだから。

 つまり、重要なのは異文化そのものではなく、我々が自分たちのカルチャーを理解する上で都合のいい異文化なのだとよくわかる。かつて、わたしが映画『ブッシュマン』に覚えた違和感はここにあったのだろう。

 ラテンアメリカの作家たちが「クラック宣言」で、西洋人のためにマジック・リアリズムを演じることを辞めたように、グローバリズムで世界から異文化は確実に減っている。それでも、無理やり、異文化を利用しようとしたら、文化の盗用として徹底的に批判される。

 では、どうすればいいのか。昨今、漫画やアニメ、ライトノベルで異世界転生があふれかえっているのはきっと偶然ではないはずだ。

 現実に比較できる異文化がないのであれば、架空の異文化を作ればいい。シンプルかつ効果的な解決方法である。異世界転生ものは日本発の誇るべき表現手法に違いない。

 もしかしたら、『パパラギ』も異世界転生ものとして読むべきなのかもしれない。それなら、偽物だけど問題はひとつもない。偽書なのに本物として受け入れられ、それが偽物と判明した後も、このようにいろいろ考えることができるという点で、『パパラギ』は本物の文学である。

「ウソみたいな本当の話がウソだったけど、それはもう本当なのだ」とバカボンのパパみたいなことを思った。




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