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【読書コラム】あえてドストエフスキーの短編を読んでみな! 頭おかし過ぎて飛ぶぞ! - 『可笑しな人間の夢/ボボーク』フョードル・ドストエフスキー (著), 西周成 (編集, 翻訳)

 先日、この人生で読むことがないと思っていたトルストイの『戦争と平和』を読み切ったという記事を投稿した。

 きっかけは今月、トルストイとドストエフスキーについて話す機会を頂いたから。スライドを作っていく過程で、それぞれの代表作を読んでいかなきゃなぁと頑張っていたのだ。

 その中でドストエフスキーの短編が凄いという情報を手に入れた。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読み、神なき世界でいかに人間たり得るかの苦悩に心を打たれ、すっかり長編小説の人だと思い込んでいたので、ちょっとばかり意外だった。

 あまり有名じゃないよね? わたしが知らなかっただけなのかな?

 とりあえず、『ボボーク』という20ページぐらいの話がヤバそうだった。

 なんでも、売れない作家が社会と折り合いがつかな過ぎて、頭がおかしくなってくるという内容。やがて、意味不明な謎の幻聴「ボボーク……ボボーク……」の声が聞こえ始める。気を紛らわすため、散歩に出かけたところ、偶然、知り合いの葬式に遭遇してしまう。とりあえず参列はしたけど、他の参加者と会話するのは億劫で、一人で墓場へフラフラ向かう。すると、死者たちの会話が聞こえてきて、ひょんなことから「ボボーク……ボボーク……」の真相が明かされる。

 めっちゃ変! 笑

 なんというか、悪夢のようなストーリー。でも、要素のひとつひとつがドストエフスキーらしさに満ちていて、すごく興味を惹かれた。

 ただ、文庫本に収録されているドストエフスキーはどれも長編だし、翻訳を手に入れるのは大変なんじゃなかろうか。むかしの全集など、プレミア価格になっているかもと覚悟しつつ、Amazonで探してみた。

 すると、2020年発売の電子書籍を発見!

 しかも、安い!

 そんなわけで気兼ねなく購入し、読んでみたわけだけど、まあ、想像以上にぶっ飛んでいた笑

(正直、ところどころ翻訳がわかりにくい箇所もあったが、そこはネットで原文を探し出し、該当箇所を辞書で調べて、どうにか感触をつかんでいった。でも、まあ、どうせ自力じゃロシア語は読めないし、だったら、どんな訳でもざっくり触れられるだけありがたい!)

 やっぱり、ドストエフスキーはあらすじでは堪能できない。なにせ、自意識過剰な語り方が魅力なわけで、無駄に思える表現を追いかけることに喜びがある。

 そういう意味では『ボボーク』は最高だった。どう考えてもドストエフスキー自身と思える主人公の面倒臭さも面白いけど、死者たちもみんな自分勝手に言いたい放題やっていて、やたらカーニバル感があった。

 もし、自分だったら、そのカーニバルに主人公も参加させる展開にしてしまうかもしれない。それぐらい盛り上がりまくっているのである。でも、そこはドストエフスキー。うっかり、くしゃみをした瞬間、静寂が訪れてしまうのだ。そして、いつかまたあの愛すべき死者たちのもとを訪れたいとセンチメンタルに浸りながら、主人公は墓地を去っていく。

 なるほど、いい終わり方だなぁと思っていたら、突然、その終わらせ方を含め、これまでの述懐を否定するから度肝を抜かれる。死者たちが墓場で、期せずして手に入れた本当に最期の時間を、無駄なおしゃべりで浪費していたなんて、とてもじゃないけど受け入れ難いと言い始めるのだ。もっと価値あることをすべきじゃないか? と。

 それまで、ギャグみたいなお話だと油断していたので、急にこちらまで問い詰められているような感覚に襲われて、ギョッとした。いつかは死ぬとわかっているのにお前はやるべきことをやっているのか? と聞かれたような気がした。

 わたしはいま31歳なのだけど、そのことを認識するたび、毎回恐ろしくなってしまう。一応、自分なりに頑張って今日まで生きてはきたけれど、それに意味があったのかと言えば、自信はない。仮にいま死ぬことになったとしたら、やるべきことをやれていないと後悔するに決まっている。

 でも、そういう思考実験を行なってもなお、仲のいい友だちとLINEグループでメッセージを送り合うだけの数時間を過ごしてしまう。目的のないおしゃべりだったり、興味のない飲み会だったりに参加してしまう。いずれ死ぬとわかっているなら、後悔なきように、命懸けで大きな仕事に取り組むべきだとわかっているのに、YouTubeでゲーム実況をだらだらと見てしまう。

 ちょっと待って、ドストエフスキー。墓場でどんちゃん騒ぎしている死者って、わたしたちのことだったのかよ。意地が悪いにもほどがある。

 ただ、この切迫感こそ、文学を読む醍醐味なんだよね。現実の出来事より自分のリアルに向き合えてしまうフィクションの凄み。それをこの短さで作り出せてしまうなんて、ドストエフスキーは短編の達人である。

 たぶん、長編のクオリティが半端なさ過ぎて、短編の腕が霞んでしまっているのだろう。ただ、考えてみれば、『カラマーゾフの兄弟』にしたって、父親殺しを巡る全体の話とは別に、劇中の叙情詩「大審問官」も傑作となっているわけで、これを短編と捉えることもできなくはない。してみれば、わたしたちはずっと、短編の達人としてのドストエフスキーを知っていたのだ。

 なお、一緒に収録されていた『可笑しな人間の夢』もよかった。

 自分が狂人であると認識している可笑しな人間が夢の話を語るのだけど、それは現実の人類を戯画化したもので風刺が効きまくっている。とはいえ、したり顔で社会を批判するのではなく、ドストエフスキーは狂人として、切実な思いを告げる形で世の中の矛盾を浮き彫りにしていく。この痛々しさが堪らない。

 そんな中で、可笑しな人間は奇妙な仮説を考え出す。

 もともと、自分は月か火星の住人だったのだが、そこでとんでもない罪を犯してしまった。みんなから罵られ、迫害されたけれど、いまとなっては悪夢の形でしか思い出せない。そして、気がついたら地球にいて、帰ることはできないと知りながら、月や火星を眺めているんだとする。そのとき、わたしは自分が犯した罪をどうでもいいと思うのだろうか? それとも、恥ずかしさを覚えるのだろうか? と。

 まるでかぐや姫の悩みのようだし、SFっぽい思考実験だし、ドストエフスキーがこういう表現をしていたっていうのは個人的には発見だった。

 これもまた、わたしには刺さってしまった。いろいろな組織に所属し、トラブルを起こし、逃げるか追い出されるかして、いま、ここにいるんだよなぁって。未だに相手が100%悪いと確信している問題もあれば、ぶっちゃけ、こちらに落ち度がありまくりだった問題もあるので、眠れない夜に忘れたい過去が頭をよぎり、悶絶してしまうことが多々ある。

 そんなときはいつも、終わったことだし、二度と会わないだろうし、関係ないやと自分に言い聞かせている。でも、実際は恥ずかしさを覚えているわけで、永遠に忘れることはできないのだろう。

 このことをわたしは他人に話したことはない。こうして文章に書いたこともない。というか、それが切実な悩みであると認識できるほど、自らを俯瞰できていなかった。なのに、こうしてドストエフスキーの短編にそのものずばりがメルヘンチックに記されていたので、怖いような、嬉しいような、くすぐったい気持ちになった。

 たぶん、ドストエフスキーはわたしの中にいる。そうじゃないと、これだけわたしの深層心理が的確に言語化されている意味がわからない。

 いや、無論、時空を越えて魂が浸透してくるリアリズムがドストエフスキーの偉大さなのは理解している。理解してもなお、わたしだけの存在だと錯覚せざるを得ないのがドストエフスキーなのだ。

 長編がそうなのはなんとなく納得がいく。読み終わるまで、こちらも相当な時間を使っているから、ドストエフスキーが流入してくる量も多くなって当然だから。でも、まさか、わずか数十ページの短編でも同じことになるなんて。

 改めて、ドストエフスキーにやれてしまった。




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