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学生は社会人になるまでの「猶予」なのか?

四月になってからというもの、毎日のように課題に追われている。

noteの更新も儘らない程とまではいかないが、日々の課題に追われ、それに伴い色々と考え事も増えたことで、ベッドに入ってもなかなか眠れなくなった。

ここ3ヶ月は特に、いつ寝ていつ起きているのか分からない生活をしていて、もともと不規則な生活気味だった性格にさらに拍車がかかっているようなら気がする。

去年までは毎日のように母に電話をかけていたが、ここ最近は会話もろくに出来ていない。

毎日、本や論文を読んで理解して資料を作って、原稿を考えて・・・としていると自然といつの間にか一日が終わっていて、そんな日々に、時々、いや毎日逃げ出したくもなっているが、

そんな日々を過ごしていく中で気付いたことがひとつだけある。

それは、

やることがなくて暇を持て余していた去年よりも、

やることに追われて忙しくしている今の方が生きていてとても楽しいということ。


去年のこの時期、私はまだ就活をしていて、自分のやりたいことが見つからず、ずっと手探りだった。

やるべき指針や手立ても全くなくて、

流されるまま生きてきた自分を心底後悔して、

社会からあるいは周囲から次第に置いてけぼりにされていくあの変な焦りとぬぐえない不安感で、

自分が今生きている意味を完全に見失っていた。

それは、まるで人生グラフのどん底を歩いているような、

私にとっての、人生の一挫折でもあった。

大人になればなるほど、自由な選択ができるようになればなるほど、

人と違う道へ進むのも怖かったし、

自由だ、何でもできる、と思えば思う程、自分が何をしたいのか分からなくなっていった。

でも大学院に進むと決断し、実際に進んだ今、

どんなに忙しくても、自分のやりたかったことができている今はすごく心地良く、ちゃんと地に足ついて生きている感じがする。

そして何より、

今が一番、心から勉強が楽しいと思った。


どんなにやることに追われて、生活も不規則で、睡眠時間が無くて辛くても、

やりたいことをできている今、それができている環境がある今、

余計に、もう去年みたいなあんな思いはしたくないと、あの時の挫折が、

今の私を突き動かす大きな原動力となっている。


大学生や大学院生のことをよく「モラトリアム期間だね」と言う人がいる。

だけどこの言葉を使う人の多くが、本来の言葉の意味とははき違えて使っているような気がする。

モラトリアムとは本来、「猶予」という意味の言葉なのだが、

この言葉を使う人の多くが圧倒的に学生を下に見ていて、

まるでただ何も考えず、チャランポランに過ごしているというような嫌味の言葉として使われる傾向が高いような気がする。

もちろんこれはあくまで私のド偏見な一意見にしか過ぎないし、異論はもちろん受け付けるのだが、

最近こういった意味で言われることが多く、少し悲しかった。
私は私なりに一生懸命頑張ってきたつもりだったけど、それが全否定されたようで苦しかった。

私は、自分の進んだこの「大学院」という道が、社会人になるまでの「猶予」だとは思っていない。

あくまで自分自身がそうしたくて決めた道で、その時自分がした最良の選択だと思っている。

確かに、社会人になった友人と会うと、

時々本当に、「これで良かったのかなぁ」と疑問に思う時もあるが、

結局私が下した選択を正解にしていくかどうかは、

私自身が肯定し続け、納得していくしかないとも思った。

現に研究が楽しいと思えている今、自分がワクワクする方に進めている今、人生は楽しいし、進んだことに後悔するどころか、進んでよかったと思っている。

それだけで十分、選択するにあたって正解なのではないだろうか?

他人が歩んでいる人生はいつもキラキラして見えるし、

他人が歩む人生はいつだって羨ましく思えるけど、

大多数が歩むレールを外れた今、

別角度から見えている私の景色はとても面白い。


※写真は引用。





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