20 「十九世紀の菩薩」オルコット日本来訪(上)ペリー総督の再来?|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇
オルコットの上陸
日本を発ってちょうど五カ月後の明治二十二(一八八九)年二月九日、野口復堂こと善四郎青年は、オルコット大佐とダルマパーラを伴い凱旋帰国した。一行を乗せたフランス郵船が接岸した神戸港小野濱桟橋には、歓迎の僧侶七十人余りが待ち構えていた。復堂曰く、「神戸に着くや波止場は丸い頭の山、この間より毛のある頭が二つ来て復堂を抱えて泣いたのは平井金三氏と佐野正道氏であった。」
神戸に上陸したオルコット一行は、野口復堂がインドで受けたそれに匹敵する、あるいは上回る歓待を受けた。彼の来日は、日本の西欧化に便乗して布教攻勢をかけるキリスト教に対し、危機感を抱いた関西仏教徒有志の招聘運動によって実現したものだ。しかし復堂らの帰国を待ち受けていたのは日本仏教界の諸手をあげた大歓迎だった。
南国育ちのダルマパーラは船旅の途上、上海で初めて雪を体験して縮み上がり、寒さからくる強度のリュウマチ神経痛に襲われ病床にあった。しかし「この若いシンハラ族の喜び感謝すべきことには、(出迎えに来た)七人の高僧たちはわざわざ郵船のデッキまでやって来て、彼にセイロン仏教徒の代表としての尊敬の意を表した」*30のである。彼はまもなく京都東山病院に入院し、日本滞在のほとんどを闘病生活に費やす羽目となった。
日本仏教界の大歓迎
オルコット一行は九日は神戸能福寺で宿泊、翌十日に汽車で京都に入った。予定では上陸後ただちに京都に向かうはずが、入京免状の下付に時間を取られたためだ。オルコット入京の様子を二月十七日付の「時事新報」に曰く、
折しも日本は大日本帝国憲法の発布に伴う祝賀ムードに沸いていた。卑屈な欧化主義を脱し、誇り高きアジアの近代国家へと重要な一歩を踏み出そうとしていた日本。その極東の小国に継承された太古の叡知即ち仏教を称賛する奇特なアメリカ人は、あまりにもよいタイミングで日本に乗り込んだように見える。同年創刊の「浄土教報」は「日本仏教の新良友」と題した論説を載せてオルコットへの期待を表明した。
オルコット、先祖に会わす顔がない
十二日から三日間、知恩院の集会堂で行われたオルコットの演説会は数千人の聴衆を集めた。オルコットは極東の仏教国で、「十九世紀の菩薩」とまで触れ回られた自らの立場の珍妙さにいささか戸惑い気味であった。回想録に曰く、
そして彼はふと自分の出自に立ち返り、苦笑せずにいられなかった。
知恩院での最初の演説──ペリー総督の再来?
知恩院にはもはや立錐の余地もない。固唾を呑んで見守る群衆に向き直ると、オルコットは日本仏教徒への最初の獅子吼を放った。
この時の通訳は平井金三。オルコットは演説のなかで自らを同じアメリカ人であるペリー総督になぞらえた。彼は「外圧」によって日本を覚醒せしめたペリーを引きつつも、日本の進歩は日本が内に貯えた「固有の元氣」によることも同時に強調し、日本人の自尊心を巧妙にくすぐったのだ。そして彼は、西洋の文物を取り入れるに当たっては取捨選択が肝心であり、「粗悪品」の宗教であるキリスト教など、ゆめゆめ受け入れてはならぬと強調した。
次いで、オルコットは持論の南北仏教統一についても熱弁を振るう。
管長会議で仏教統一を説く
京都の街は興奮に包まれた。十九日には知恩院の方丈において、日本仏教の各宗派の長が一堂に会する「管長会議」が開かれた。この会議を呼びかけたのは、客人オルコットのほうであった。
回想録によれば、オルコットの日本講演ツアーのスポンサーとして、当初浄土真宗が名乗りを上げていた。しかしオルコットは自らの存在が特定宗派の利益や宣伝に利用されることを嫌い、すべての主要宗派の共同出資を促すべくこの歴史的な会合を呼びかけたのだという(スリランカの上座仏教に親しんでいたオルコットは、僧侶の肉食飲酒妻帯を是認する浄土真宗への違和感を拭えなかったのも事実である)。
オルコットの呼びかけに応えた会議には各宗の有力者百三十人余が出席した。彼はずらりと集まった坊主頭を見渡して曰く、
この席でオルコットは、スマンガラ大長老から託されたサンスクリット語で書かれたメッセージ(前述)の英訳を読み上げた。会合はまさに「一千年近くの間、仏教的世界の分離した支部の間になされた最初の正式交渉」となったのである。
いずれにせよ、当時としては日本国内の主だった仏教宗派の長が一堂に会すること自体、極めて異例の出来事だった。
この歴史的会合は、日本の仏教関係者にも深い感銘を与えたのである。
オルコットの日本行脚
日本仏教界挙げた全面的な支援を取りつけたオルコットは、そののち全国各地を旅行して破邪顕正の演説を行い、聴衆から熱狂的な反響を得た。彼の赴くところ、輸入されたばかりの国際仏教旗と日の丸が無数に翻った*37。
彼の獅子吼のありさまは当時発行されていた仏教系の新聞や雑誌、『時事新報』などの一般紙、または全国各地で出版されたおびただしいパンフレット等を通じ容易に知ることができる。
仏教徒の連帯、反キリスト教と国粋主義、あるいは宗教教育の必要性等を訴えるオルコットの主張は、展望を失いがちな日本の仏教徒に大きな勇気を与えた。古い封建体制の遺物として長く蔑まれていた仏教は、日本人が西欧世界に向かって堂々と発信すべき、普遍的な福音として再認識されつつあったのである。
オルコットは日本仏教界に対し、大乗小乗の各仏典を比較研究のうえ、通仏教的な経典を作成するため各宗派の経典をアディヤールの神智学協会に送るよう要請した。「南北仏教の統一」という彼の途方もない理想は、いたって真剣なものだった。オルコットの仏教復興への熱情、そして積極的な提言は、仏教を「旧時代の遺物」として蔑視してきた一般の日本人に対しても、外部から新鮮な感覚を呼び覚ました。
当初オルコット来日を冷笑で迎えた日本のキリスト教徒も、オルコットへの熱狂ぶりに次第に危機感を強め、小崎弘道が前出『国民の友』誌上等にオルコットや神智学協会に関する中傷記事を投稿するなどネガティブ・キャンペーンを試み始めた。
もはや攻守は完全に入れ替わった。オルコット招聘に動いた平井金三・野口復堂らにすればようやく「溜飲を下した」といったところだったろう。「十九世紀の菩薩」の極東ミッションは、ひとまず大成功を収めたかに見えた。
註釈
*30 〝FLAME OF DARKNESS〟p54
*31 『浄土教報』第一号、一八八九年一月二十五日
*32 〝ODL〟4th, p100
*33 『海外仏教事情』第二集、五月十一日
*34 『浄土教報』第五号、四月十日
*35 『浄土教報』第七号、五月十日
*36 〝ODL〟4th, p111
*37 ダルマパーラは『海外宣教会』に宛てた明治二十一年四月の書簡で仏旗のひな形を示し、その由来について説明している(『海外仏教事情』第一集)。おそらく仏教旗はオルコット訪日に合わせ各地で縫い上げられたのだろう。国際仏旗は、スリランカから日本に伝来したわけだが、この時、逆に日本からスリランカに渡った重要な仏教グッズがあったという。『スリランカ──人びとの暮らしを訪ねて』渋谷利雄・高桑史子編著、段々社、二〇〇三年に収録された渋谷利雄「ウェサック祭と日本の提灯」(二十四頁〜)によれば、スリランカでウェーサーカ祭が仏教徒の大祭として派手さを増していく過程で、日本の「お盆灯篭」が取り入れられ、「ウェサック・クードゥワ」の名で盛んに用いられるようになったというのだ。当時の文献によると、やはりオルコット大佐とダルマパーラの初来日(一八八九年)が「お盆灯篭」導入のひとつの契機になったらしい。このミッションを通じて、スリランカには日本のお盆灯篭がブッダを荘厳するアイテムとしてもたらされ、日本には世界仏教の連帯を表す仏教旗(国際仏教旗)がもたらされた。南北仏教の交流の歴史を現在に伝える微笑ましいエピソードである。
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