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22 病床のダルマパーラ オルコットの催眠療法、亡国の民の叫び|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇

ダルマパーラの入院

閑話休題。知恩院での歓迎の後、ダルマパーラ青年はいよいよ病状が進んで京都療養院に運び込まれた。闘病生活を送る彼のもとには、多くの青年仏教徒が訪れた。高楠順次郎は、昭和八(一九三三)年、ダルマパーラの訃報に寄せた文中でこう述べている。

高楠順次郎

 若い外来の仏者に交わるべく、最初に会合したのが、秦千代丸(のちの敏之) 澤井洵(のちの高楠順次郎)であった。三人は非常なる前途の希望に燃えて、日々京都東山公園の中村樓の宿舎に会し、仏教者の行くべき道を論じつつあったのであった。……極寒の日本は常夏の獅子州の青年を無残に苦しめた。遂に強度の神経痛を発し、寸歩も運び得ない状態となった。居士は遂に三ヵ月間病床の人となった。その間昼夜側近く看護し慰安したのは、秦、澤井の両人であった。

*42

「私はこの日本帝国に来るや不幸にもこのような難病に苦しめられている。病魔のために私の身命を失えば、故国の父母は深くこれを悲しむだろう。故国の姉弟は深くこれを嘆くだろう。故国の親友は深くこれを憂うだろう。それでも、盛大なる仏教国(日本)を訪うた事で私の心は満足している。」

*43

ダルマパーラが病床で繰り返したというけなげな言葉は、感じやすい青年仏徒の心に強く訴えた。当初ダルマパーラの容態は、医薬が役立たぬほど重かったという。これを軽癒せしめたのは、高楠によれば、なんと「オルコット大佐の催眠術」だった。

オルコットの霊能力

 初めは医薬の功なきを知るや、ダンマパーラ居士は実に失望の極にあったが、今はオルコット大佐より外に寄る辺なきを感じたらしいので、大佐も何とかして慰めんとする心持ちで日夜時刻を定めて枕辺に見舞った。初めは単に慰安の為に両手の掌を拡げて胸から腹へ、腹から脚へ力を籠めて撫でるような姿勢を以て、病人の体と平行して動かすのである。この姿勢を続けること凡そ十分にして病人の眼はそろそろ眠りを催すようになった。大佐は、しめたと云うような風で眠りに落ちるを待ってその室を去る。
 次の日も同じことを繰り返えす。二十分位で已に眠りに就く、次の日は十五分、その次は十分と云う風に、時に多少の差はあるが、段々に短い時間に眠るようになった。こうなると本人は大佐の来るのを待つようになる。後には大佐の顔を見ると已に眠りを催すようになる。最後には大佐が来るべき時刻が来ると已に安心して眠る。大佐の催眠術は実際の奏功を示したのである。

*44
Henry Steel Olcott

ここでようやく、オカルトっぽい雰囲気の話題が登場した。オルコット大佐はスリランカで仏教復興運動をオーガナイズしたが、その過程で神秘的な病気治しの「秘蹟」を行っていたことは案外知られていない。彼はスピリチュアリスト時代から催眠療法を嗜んでいたが、その素地は南アジアにおいて神がかった治癒力となって開花したのだ。彼自身、自分の行為が単なる暗示によるものか霊能力によるものか半信半疑だったようなのだが……。とにかく一八八二年後半から翌年にかけ、オルコットはスリランカ・インド各地を巡業し、数多くの病人や身体障害者に病気治しの秘蹟を施したのである。

「ヒマラヤのマスター」との交信を一手に引き受け、天性のカリスマ性で神智学協会を引っ張ったブラヴァツキー。それに比してオルコットは実務家としての側面ばかりが強調される。その彼がスリランカやインドで大衆の間にカリスマの地位を築き得た背景には、霊能力による(と信じられた)病気治しの実践があった。

つまり十九世紀末に始まった仏教復興運動を初動で支えたのは、一面ではオルコットのカリスマ性へのスリランカ民衆の盲目的帰依でもあった。オルコットは啓蒙的な「生き仏」の役回りを引き受けたのである。若いダルマパーラのオルコットや神智学協会への耽溺ぶり、「この時期において、大佐への特別な献身が彼の人生のおもな情熱の一つであった」と語られる背景も、おそらく、そんなところにあったのだろう。

日本人の熱心な称賛者

オルコットの催眠療法によって危機を脱したダルマパーラのもとには、医者や僧侶、仏教学生や教師・作家・哲学者・事務員までがひっきりなしに慰問にやってきた。「大佐の場合はマホメットが山に会うために行ったとすれば、ダルマパーラの場合は山がマホメットに会うためやって来たのだ。」彼の伝記は大げさな表現で伝えている。そしてダルマパーラは退院が近づく頃には日本について知識を増し、日本人の熱心な称賛者になった。

ダルマパーラは日本では病に伏せっている時間が長かったが、小康を得ると川上貞信(のち、オルコットに従ってセイロンに留学した青年僧)の翻訳で『愛理者之殷鑑』と題したパンフレットを出版した。また退院したダルマパーラが、帰国直前に日本で行った演説記録もいくらか残されている。

英語文献を通じた「伝統」との再会

病気の癒えたダルマパーラは四月の下旬からはオルコットとの旅行に同行し、五月六日から西日本巡行に向かうオルコットを見送った。この時京都で開かれた両者の送別会は知事等が出席する盛大なものだった。次に四月二十七日、知恩院でのオルコット告別演説会に病身をおして出席したダルマパーラの演説を紹介したい。

Anagārika Dharmapāla

 吾が親愛なる日本の仏教信者の人々よ。私は皆様に御目に当るのは、今日が初めてゞ御座ります。唯今オ氏が申されました通り、日本に渡航已来、其意を遂げず空むなしく病院に居りました。私のシーロン島に於て何を致して居るかは今オ氏が簡短に咄されましたから、今度は私が少く委く皆様に私が仏教信者になりたる訳、又来朝致した訳を御咄おはなし致しまする。
 私は生れ落るや否や宗教心深く、又私の母が仏教信者でありましたから、母の力がよほど私に力を添えました。私は英国で耶蘇ヤソ教の牧師の教育を受けました。その上仏教の無い処でしかも仏教とすべて反対の牧師の教育を受けましたから、自から仏教に対する心が薄くなりました。水も絶えなければ遂に石に穴をあけると云う格言が御座います通りに、長い間教育を受て居りましたゆえに仏教は真成に道理に違た宗旨ではないかという思想が起りましたが、私が英国の学校にいる時に霊智協会から一つの雑誌が出ました。その時に其れを読むことを始めました。然るに其雑誌の中に、仏教は世界中にて無比の教えでありて、今日に於て益ますます光りを発する宗旨だという事が書て御座りました。私は耶蘇教のために仏教に対する愛情は失せておりました時に、恰好かっこう此雑誌の助が参りました。
 私の同窓の友達は耶蘇教者であるから、皆私を駁撃致しましたけれども、私も亦負けずに駁撃致しました。私は此時十四五で御座りました。其時オ氏がブラバストキー夫人と共にシーロンに来たりて耶蘇教に対して大なる駁撃を加えました。(中略)それより霊智会の支部が出来ましたから、何とぞ入会を許して下されいと頼みましたなれども幼年だからと云いて許しませぬ。依て十八歳の時にオ氏に由て入会を承諾せられました。私は十八年までは無益に月日を費やしませぬ。霊智会の雑誌を読んで、彌々いよいよ私の志を慥たしかめました。

*45

のちの粉飾美化された伝記の記述とはずいぶん違って、ミッションスクールでの教育によってシンハラ人仏教徒としてのアイデンティティを喪失しかけたところで、神智学協会の「雑誌」を通して仏教を再発見するに至ったというダルマパーラの魂の遍歴が素直に告白されている。

このような変則的な、英文テキストを通じた伝統文化との出会い・再発見は、ダルマパーラに限らず、当時の南アジア知識人にある程度共通した経路だった。かのインド独立の父マハトマ・ガンディー(モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー)も、弁護士になるために十八歳で留学した英国の地で神智学徒から読書会に誘われるまでは、ヒンドゥー教の最高の聖典たる『バガヴァッド・ギーター』を読んだことがなかったのだから。神智学徒の二人とギーターの読書会を始めたガンディーは、あらゆるギーターの英訳書を手当たり次第に読みふけり、特にエドウィン・アーノルド(一八三二〜一九〇四)の訳文に心酔したという。彼は同じアーノルドの『アジアの光』(〝The Light of Asia〟釈迦の生涯を綴った無韻詩)を通じて、仏教からも影響を受けた。神智学関係者がいまも誇らしげに語るエピソードだが、ガンディーのインド思想への目覚めは、皮肉なことに母国語ではなく英語の訳本によって、そして異国の神秘主義サークルのなかでもたらされたのだ。

仏教復興は民族独立ヘの道

話をダルマパーラの演説へと戻そう。

 シーロン嶋の歴史は二千五百三十七年に始りて居りますが、(中略)シーロン嶋の確実なる歴史に依れば釈迦牟尼仏は三回シーロン嶋に御渡り成されたとある。其の後、釈迦牟尼佛の涅槃と同日に中央印度のビイジヤ公子は己の率いし三百人の兵士と共にシーロン嶋土着の者に打ち勝ち其儘に止まりて住居致しました。此ビイジヤと申す人はマハダ国(引用者註:マガダ国)の公子で印度の中央に当る国で御座います。其後北印度に皈かえりて其三百人の従者と共に妻を迎えて参りました。之に由て之を見まするにシンハリー(すなわちシーロンの古名)国民は公子及其従者三百人の子孫で御座います。

*46

この後ダルマパーラは『大王統史マハーワンサ』の伝説に基づくセイロン島史を詳述するのだが、紙面の関係で略す。釈尊入滅と同じ日にスリランカに上陸した「ビイジヤ公子」とは、現在もシンハラ人の間でスリランカ建国の祖とされているウィジャヤ王のことだ。スリランカはその建国神話のなかでも仏教との密接な関係が暗示されている。ダルマパーラはランカーの栄光の歴史に引き続き、祖国が西欧の侵略によってこうむった屈辱について語り出した。ここからは迫力満点の、文語体の速記録から引用しよう。

 諸君よ吾国も最初アショカ王が佛教を伝えてよりポルトガル人が来るまで千九百年ばかりの間は日本と同様に太平の幸福を享けたりしが、三百年以来は外国人のために蹂躙せられて種々様々の国難に当り、国民はほとんど塗炭の苦を受けたり。されどもなお独立国の面を失わざりしが、七十年来は全く英国の奴隷同様に成り果てて今は如何とも致し方なき我々が心中は如何ならん、諸君御察しされよかし。
 諸君も御承知の北アメリカ州は我国と同じく英国の圧制を受けたる国なりしが、国民の発奮より遂に英国に打勝ち今は立派なる独立国となりて諸君も同様の幸福を受けて居るを見るに付けても我々が感情は如何あらん。諸君よ、なお一層の御察しを給われよかし。我々はイギリスのために恨み骨髄に徹するものあり。それはポルトガル人オランダ人よりも尚一層残忍なる暴虐を逞しうして耶蘇教を信ぜぬ佛教者を鏖殺にしたる事これなり。之に依って佛教は殆ど滅亡の姿とは成りぬ。諸君よ察し給え心にもあらぬ耶蘇教を信じたる顔付きなしてイギリス人の乱暴を免がれ、真底より信じたる佛教を色にも出すこともならざりし属国人民の心中は如何に憐なる事ならん、諸君よ篤と御察し下されよかし。
 然るに佛天のこの憫然なる風情を憐み給う所なるか、千八百八十年即ち今より九年前に外国より耶蘇教を打仆【たお】して佛教を引起すの総督を得たり。(中略)
 オルコット氏と彼のブラバストキー夫人とが我国へ来られたる是なり。殊にオ氏は公然とみづから任じて山間僻地いかなる処にても佛教のためには奔走尽力して布教伝道せられしが故にさしも圧制せられたる佛教が光を放らて今は佛教は学術の正義に叶いし自然真理の宗教なりと云う事は国民の信任する所となれり。これまで佛教信者は官に対して堅く秘したりしが今は公然と公衆に対して我は佛教徒なりと誇る事を得るに至れり。
 セイロンにて一定の祭日はただ耶蘇教のクリスマス(中略)のみなりしがオ氏が官民の間に尽力して釈迦牟尼佛の降誕日を一定の祭日と致されしより今は国内第一の盛大なる祝日となれり。セイロンにては佛教上の書籍出版所は一箇所も無かりしが、今は佛教の完全なる書物を出版するようになれり。かつまた佛教新聞は一も無かりしが、今は立派なる佛教新聞を発行せり。セイロンには佛教学校は一も無かりしが今は山間僻地に至るまで佛経読誦の声の絶ゆる処は無きに至れり。
 およそ是等の事は悉く皆オ氏の功労なるが故に、オ氏は我が国佛教者の首領にして我等佛教信者は之に従いて運動する事を得ること実に悦ばしき事の限りなり。されば今のセイロンは九年前のセイロンとは全く反対にて今は佛教者が却って耶蘇教者を嘲弄するの有様に至りたり、豈あに愉快ならずや。(中略)
 嗚呼我等が精神を支配する佛教は、神智学会の功力即ちオ氏の功績によりて既に恢かい復ふくの途に上れり。我等が身体を圧制する束縛は何れの日にか之を解くことを得ん。諸君よ、篤とくと御高察下されて篤と御覚悟なされよかし。

*47

最後の一節は特に印象深い。ダルマパーラはこの時すでに、仏教復興がシンハラ人の精神的な独立を促し、「身体を圧制する束縛」つまりイギリスの植民地支配を打ち砕くに至るであろう事を強調していた*48。

また、その際に引き合いに出しているのがイギリスからのアメリカ合衆国の独立であるところも、現代人から見ると興味深い。オルコット大佐がセイロン仏教の復興運動に参画した当時、「アメリカ人は、イギリス支配に対して反乱を起こしそれに成功した、西欧列強とは対立する偉大なる反植民地主義者だと考えられており、そのためオルコット大佐は、シンハラ人の闘争を助け、西洋の組織技術を提供しうる、政治的・文化的同盟者として歓迎された」*49 のである。

ダルマパーラの講演を筆記した日本國教大道社(後述)藤本重郎は、「嗚呼オルコット氏やダンマパラ氏や実に能く勉たり実に正法を恢興して他日セイロン独立の基礎を立てたり。苟も護国護法の心あるもの誰か二氏を賛せざらんや」とパトリオットらしい直情的な賞賛を附記している。ダルマパーラのメッセージは、亡国の民の諄々たる訴えとして、あるいはオルコット以上に日本人の琴線に響いたのかもしれない。


註釈

*42 「ダンマパーラ居士の訃音」『現代仏教』第一〇六号、一九三三年八月

*43 『愛理者之殷鑑』ダンマパラ著、川上貞信訳、菊秀堂、明治二十二年四月、前書きより。原文を現代語訳した。

*44 「ダンマパーラ居士の訃音」

*45 『浄土教報』第八号明治二十二年五月二十五日 適宜句読点を追加するなどの修正を加えた。

*46 『浄土教報』第十号明治二十二年六月二十五日 右に同じ。

*47 日本國教大道叢誌第十一号抜粋「神智学会書記ダンマバラ氏の演説」藤本重郎記 明治二十二年十二月

*48 しかし『浄土教報』第十三号明治二十二年八月十日に掲載された口語速記ではこのくだりが載っていない。スリランカで仏教婦人組織が始動し始めたことを報告し、「私が先日来病症に懸りまして皆様の浅からぬご厚情を受けましたが、実に末永く難有感謝致します。シーロンに皈りて多くの人々に此事を話す積りで今日よりそれを楽みに致して居ります。」と終わっている。藤本重郎は、ダルマパーラの熱誠から、それ以上のものを聴き取ってしまったのだろうか。

*49 『スリランカの仏教』ゴンブリッジ、オーベーセーカラ、三〇八頁

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