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近代仏教人物誌

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近代を生きた仏教者たちの諸相。『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』(学研,2005年3月)や『中外日報』連載「近代の肖像」への寄稿等を再録しました。
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#近代仏教史

釈雲照

釈雲照

しゃく うんしょう/1827~1909年/雲照律師/真言宗/『大日本国教論』『予が信仰』/戒律復興を唱えブッダガヤ復興運動にも取り組む

『吾輩は猫である』文中にもその名が記されている釈雲照は出雲(島根県)の出身。俗姓は渡辺。明治初頭、高野山女人禁制の撤廃を伝える新政府勅使に全山恐懼するなか、ただ一人立ち向かった逸話が残る。高野を下った廃仏毀釈の嵐に抗すべく、仏法擁護の建白書を多数したためて京都・

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島地黙雷

島地黙雷

しまじ もくらい/1838~1911年/雨田(他多数)/浄土真宗本願寺派(西)/『三条教則批判建白書』『仏教各宗綱要』/政教分離を唱えた真宗指導者

山口県佐波郡和田村、西本願寺専照寺に生まれる。後年、仏教学者の島地大等を養子に迎えるが、黙雷も他寺に婿入りしてから出世した。明治元年(1868)31歳のとき、赤松連城らと本山諸制度の改革を建議し、郷国の防長二州の本山末寺の改革を断行。明治3年(187

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南條文雄

南條文雄

なんじょう ぶんゆう/1848~1927年/浄土真宗大谷派(東)/碩果/『懐旧録 サンスクリット事始め』『梵学講義』/明治を代表するサンスクリット学者

日本の近代サンスクリット学(梵語学)の祖である南條文雄は岐阜県大垣市の大谷派末寺、誓運寺に生まれた。幕末の激変期に青春を過ごし、18歳の頃には大垣藩内真宗寺院の僧侶による僧兵部隊に召集された。維新後は京都東本願寺の高倉学寮に学び、そこで学僧の南条

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清沢満之

清沢満之

きよさわ まんし/1863~1903/骸骨・臘扇など/真宗大谷派(東)/『宗教哲学骸骨』『精神主義』/『歎異抄』を再評価した真宗思想家

満之は、尾張藩士の子として名古屋に生まれた。明治11年(1878)学問を続けるため東本願寺の僧侶となり、留学生として東京大学を卒業し大学院に進む。在学中は井上円了らと哲学館(現・東洋大学)の創設に参与する。明治21年(1888)京都府尋常中学校長に赴任、三河大浜

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大谷光瑞

大谷光瑞

おおたに こうずい/1875~1948/鏡如/浄土真宗本願寺派(西)/『濯足堂漫筆』『印度地誌』/西本願寺門主22代門主

21代明如の長男で、妻は貞明皇后の実姉というサラブレッド。当時としては巨体といえる183センチの背丈。明治36年(1903)に父の死に伴って門主を継承すると、八千七百余の末寺と約七百万の信徒、そこから献納される膨大な資産を駆使し、汎仏教主義的、大アジア主義的な宗門の世界戦略を

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多田等観

多田等観

ただ とうかん/1890~1967年/トゥプテン・ゲンツェン/浄土真宗本願寺派(西)/『チベット』『西蔵撰述仏典目録』/チベット留学僧

秋田市土崎港の西船寺に生まれる。友人の誘いで上洛していた時、大谷光瑞の命でチベット留学僧の日本語学習の相手をつとめ、秋田弁を教え込んだ。明治45年(1912)3月にはインドでダライ・ラマ13世と謁見し、そのチベット語学力に感激した13世からチベット名トゥプテン・

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釈宗演(洪嶽宗演)

釈宗演(洪嶽宗演)

しゃく そうえん/1859~1919年/臨済宗円覚寺派/楞伽窟/『西遊日記』『菜根譚講話』/「禅仏教」欧米進出の基礎をつくる

鈴木大拙の師として、また夏目瀬石の参禅でも知られる釈宗演は、若狭(福井県)高浜の一瀬氏に生まれ、明治3年(1871)、12歳で同郷の越渓守謙を師として出家した。20歳で鎌倉円覚寺今北洪川に参じると25歳で印可嗣法。近代化に取り残される仏教界に危機感を抱き慶応義塾の別科に学

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鈴木大拙

鈴木大拙

すずき だいせつ/1870~1966/鈴木貞太郎/臨在宗/『日本の霊性』『禅と日本文化』/禅仏教を欧米に広めた功労者・神秘思想家

石川県金沢市に生まれ、幼くして父をなくした。19歳にして郷里の小学校教員となるが、母親の死を契機に哲学・宗教へ傾倒しはじめ、上京して東京専門学校へ進む。郷里で坐禅に親しんでいた大拙は明治24年(1891)年鎌倉円覚寺の門を叩く。高等中学時代からの親友、西田幾多郎も共に

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田中智学

田中智学

たなか ちがく/1861~1939年/田中巴之助/日蓮宗/『宗門之維新』『日蓮主義教学大観』/日蓮主義運動のリーダー

近代日蓮主義の雄である田中智学は、日本橋本石町に生れた江戸っ子。幼くして両親を亡くし、10歳で出家得度した。大教院に学び新井日薩に師事するも、明治12年(1879)妥協的教学に引篭もる宗門のあり方に疑問を抱いて僧籍を返上。在野の日蓮主義者として活動を開始する。

明治18年(18

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妹尾義郎

妹尾義郎

せのお ぎろう/1889~1961年/学応(僧名)/日蓮宗(在家)/『光を慕ひて』『妹尾義郎日記』/新興仏教青年同盟の指導者

広島県東城町の造り酒屋に生まれた。旧制一高に上位入学した秀才だったが病気退学を余儀なくされ、長い闘病生活を送る。郷里の松崎久太郎、岡山県総社の釈日研らから法華信仰を学んだ妹尾は、大正7年(1918)に再度上京。国柱会で門前払いされたが、統一閣の本多日生(顕本法華宗)のもと

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