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妹尾義郎

せのお ぎろう/1889~1961年/学応(僧名)/日蓮宗(在家)/『光を慕ひて』『妹尾義郎日記』/新興仏教青年同盟の指導者

広島県東城町の造り酒屋に生まれた。旧制一高に上位入学した秀才だったが病気退学を余儀なくされ、長い闘病生活を送る。郷里の松崎久太郎、岡山県総社の釈日研らから法華信仰を学んだ妹尾は、大正7年(1918)に再度上京。国柱会で門前払いされたが、統一閣の本多日生(顕本法華宗)のもとで頭角を現し、「大日本日蓮主義青年団」を糾合する。「仏陀を背負いて街頭へ、農漁村へ!」をモットーとした巡回教化の結果、運動は全国規模に拡大した。

妹尾は山梨県下での小作争議を調停した経験などを通じて、徐々に仏教思想に立脚した社会改革を志す。昭和6年(1931)4月には超宗派の立場で「新興仏教青年同盟」を結成し、1.既成教団を排して仏教の真価を現代に発揮する 2.分裂した仏教を統一して宗派争いを断つ 3.資本主義体制の改造を通して理想社会(サンガ)を実現する、という3大目的を掲げた。「新興仏青」の理論的基礎となったのは宇井伯寿らによる根本仏教研究である。輪廻説や業論を捨象した合理主義的な仏教解釈は、当時の最新学説に立脚していたのだ。

無産運動と連帯して既存教団を批判する一方、田中智学の妙宗大霊廟とも相通ずる「一村一墓運動」など草の根でも注目すべき運動を続けた新興仏青だが、昭和11年末の妹尾の検挙を皮切りに、治安維持法による一斉検挙を受け壊滅した。獄死寸前で仮出処した妹尾は晩年、共産党員となった。ちなみに山本秀順(高尾山薬王院)は新興仏青メンバーのひとりだが、インド新仏教徒のリーダーとして不可触民解放の先頭に立つ佐々井秀嶺は彼の弟子である。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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