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田中智学

たなか ちがく/1861~1939年/田中巴之助/日蓮宗/『宗門之維新』『日蓮主義教学大観』/日蓮主義運動のリーダー

近代日蓮主義の雄である田中智学は、日本橋本石町に生れた江戸っ子。幼くして両親を亡くし、10歳で出家得度した。大教院に学び新井日薩に師事するも、明治12年(1879)妥協的教学に引篭もる宗門のあり方に疑問を抱いて僧籍を返上。在野の日蓮主義者として活動を開始する。

明治18年(1885)「立正安国会」(のちの国柱会)を設立。信徒の主体的自覚で運営される教会同盟制度を確立し、文書伝道や演説・討論などを通じて「今日蓮」と呼ばれるほど人気を博した。明治34年(1901)には代表作の『宗門之維新』を上梓する。日蓮宗の統一に始まり、日蓮主義による日本統一そして人類統一までをも説いた智学の預言者的言論は、石原莞爾らエリート軍人の心を捉え、昭和初期に吹き荒れた右翼革命運動の思想的なバックボーンとなった。大東亜戦争期に連呼された「八紘一宇」のスローガンは智学が提唱した成語だが、智学本人は晩年、日本を含め「世界が悉くアメリカ化」することを予見していた。

一方で彼の文才と芸術への深い造詣は、高山樗牛・姉崎正治・宮沢賢治・里中介山ら当時の文化人に数多くの心酔者を生んだ。磐梯山噴火を取材し「報道写真」の嚆矢をなしたり、全国の国鉄駅に機関誌を置いたりと新メディアを用いた布教伝導に積極的であった。また智学は活動の初期から、新生児への頂経式、仏教結婚式といった仏教儀式を次々と提案した。昭和3年(1928)落慶し、墓地のあり方に一石を投じた一塔合安式の「妙宗大霊廟」に至るまで、智学は新しい時代に即応した「仏教徒の生活スタイル」を形にし続けたのだ。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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