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鈴木大拙

すずき だいせつ/1870~1966/鈴木貞太郎/臨在宗/『日本の霊性』『禅と日本文化』/禅仏教を欧米に広めた功労者・神秘思想家

石川県金沢市に生まれ、幼くして父をなくした。19歳にして郷里の小学校教員となるが、母親の死を契機に哲学・宗教へ傾倒しはじめ、上京して東京専門学校へ進む。郷里で坐禅に親しんでいた大拙は明治24年(1891)年鎌倉円覚寺の門を叩く。高等中学時代からの親友、西田幾多郎も共に参禅した。翌年、円覚寺派管長に釈宗演が就任。東京帝大哲学科選科に入った貞太郎は、明治26年(1893)シカゴ万国宗教会議での宗演の演説原稿を英訳した。

宗演に倣い、インド・スリランカへの留学を志していた大拙だが、宗演の推挙もあって一転してアメリカに渡航し12年滞在。仏典禅籍を次々に翻訳し、仏教学・禅学の専門家として名を馳せた。帰国後の大正10年(1921)、教授となった大谷大学で『イースタン・ブディスト』誌を発行し、大量の英語論文を発表する。米国で出会った伴侶のビアトリスは神智学徒であり、アニー・ベサントの設立した「星の教団」日本支部を自宅に置いた。対米戦の直前に夫人は亡くなる。大拙は鎌倉に戻り、安宅弥吉の援助による東慶寺松ヶ岡文庫で研究生活を行った。昭和25年(1949)文化勲章受章。翌年から昭和33年(1958)末まで欧米各国で教壇に立った。

神智学、スエェーデンボリ、エックハルトといった西欧の神秘主義を取り込んだ大拙の言説は、「キリスト教的価値観をまっこうから否定する敵対者としてではなく、むしろキリスト教的な要素を認めたうえで、そこに日本的オリエンタリズムの芳香を加えた穏やかな嗜好品」(佐々木閑)として欧米に受け入れられた。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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