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AIと動かされる私について。

「AI機能」にいいように感知されないために、自分のネット内での行動を自身の興味関心から微妙にずらしていくようにするのは正しいことなんだろうかどうなんだろうかと考えたりしていたんだけど、なんかそれも結局は、自分のあんまり好みじゃないものがポロポロ降ってくることになるんだろうかと思うと、もやもや。

ズレにズレて、そのうち「自分はいったい何を眺めているんだろう?」の境地に達していくのかもしれないとも思う。そう、目の前には荒野が現れ、ネット内でも蜃気楼が起こるのは不思議ではないかもしれない。

しかし、やりようはあるはずだ、少しは。

要はその「ずらし方」を自身の未知なる好奇心の方向へと、冒険心を持ってずれていけばいいのかもしれぬ、と思いつつしばらくはそんな感じですごしてみよーと思っている。(まぁ、それもあんまりパッとした効果はないかもしれないけれど。)

何と戦おうとしているのか、という問題になってくる。変に時間を無駄にしてもいけないし、でも大切に生きたいし。
「AI」は大変便利なものと思うけれど、もろ刃の剣、というところでとどまれる冷静さを保持できるだけでも大したもの、と呼べる季節が来るのかもしれないなぁ。

「ChatGPT」は人々のさみしさをかりそめでも埋めてしまえるところが現実なのだろうけど、これはでも抱き枕や人形とかと同じような端緒なのかもしれない。それらと比較してある部分での精度が上がり、没入度が上がった。人間が感じるリアリティの違いなのだと思う。「リアルである」ということが客観性を失わせていく。それは主観としての信頼度が上がっていくことなのだろうな。疑うことを忘れるととても怖い思いもしそうだ、っていう未来もありそう。

しかし、それら「恐怖に感じること」をカバーすることも、時間と共に発展していくのかもしれない。

痛みや不安に思うことを限りなくゼロに近づけていくことは可能なのか?そしてその中でも人間はどのようにおかしな有機的存在としてあることができるのか?という別の挑戦が始まっているように思える。どこかで。


おなか減った。


しーめ。



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