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好奇心とは

インターネットのいろいろなページを見ていくなかで、ページ画面の隅やはしっこに、卑猥な広告が出るのやめてもらえないかなと思うんですが、みんなはどう考えているのだろう。

この話題は友人との会話では意外と出てこないんだけど、一度か二度だけ話したことはある。

でもその時も「そういうのよく見かけるよね」程度で話は終わってしまうものだった。

自分も気にしないようにはしているけれど、普通に健全な内容で調べものをしているときにこのような広告を見かけるのはやっぱり嫌だなと思う。

あれ、疑問に思わないんだろうか。

あれが出てくるだけで、そのページを見るのを即座にやめてしまうこともけっこうあるんだけどな、なんか大まかにこのサイト信用できないわ、って、そういう判断にしてしまってもいっか、って。

今は各種メディアでもコンプライアンスがどうとかいろいろ清潔なふるまいと品位を大切にしようとか表向き言っているけど、セクハラとかハラスメントとかいろいろ言ってるけど、あのよく分からない広告たちについては何も抗することはできないんだろうか。

意外と話題になってるところを見かけないのは何かあるんだろうか。

(そういえば最近はYoutubeの下品な広告のほうは少し話題になってるところを見かけたような気がする)

あれは今のところ自由なんでしょうか。

「人間の品位を疑う」っていっても、その品位を位置付ける範囲は個人で判断してしまうとそれぞれの感受性や好き嫌いも含めてしまって、グダグダになったり、歪な差が出てしまうだろうから、ルールとして決めるしかないのかもしれないけど。

なんだかな、っていう、ネットの中の話。


広告っていうのは、自分はどんな素晴らしい内容の広告でも一定の不信感を抱くのだけど、それはなぜなんだろうって思っていた。

たぶん、人にある種の不安を与えることで扇動し先導していくためのツールなのだろう、という大まかな解釈を今のところしている。

もしかしたら違う要素があったり、生まれてきたりすることもあるかもしれないから、そうと決めつけることはしないけど。

感動的な広告っていってもそれははっきりとした意図があり作為で成り立っっている。

作為的なものが悪いというわけでは決してないですが、広告についての話。


その広告が作られるに至った「最終的な目的は何か?」につきるかもしれない。

「ものより思い出」とうたっていても、要は車を買ってほしいというっことなんでしょうよ、っていうことだったり。

新しい価値があるかのようにふるまうこと、それは可能であり、また、新しい価値は富嶽百景のように、一つのものを異なる角度から眺めて発見したにすぎない、ともいえる。

それはべつに必ずしも悪いこととは限らないけど、けど何かっていうと、そういうものごとの構造をもっと自分は知りたいんだと思う。

ただ無思考に流されているだけっていうのは、ちょっと嫌だ。

それでもいいじゃん、ただ楽しければ、っていう人もいると思う、実際言われたこともあるし。

それはそれで否定しないしいいけど、自分は自分だから、やっぱり知りたいことは知りたいのだ。

それも単なる好奇心かもしれないけど、それでも。





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