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違いについて

LGBTQについて。何をいまさら話題にしているんだろうか。アンディ・ウォーホルだってバスキアだってその中の一人として存在していた。そんなに「違い」が気になるんだろうか。そのまま受け入れればいいだけの話だと思うけど。それぞれで勝手に生きればいいじゃんって話。迷惑でもなんでもないんだし。自分は自分、人は人。

同性愛者が身近にいたとして、悲しむ理由も分からない。

嬉しいとも悲しいとも思わない、自分は。「あ、そう」で終わり。なんかそういうことでぐちゃぐちゃやってる今の傾向が、ニュースとか見ても「なんだかな」って思うだけ。

いいもわるいもなく単なる事実じゃん。そんなに他人のことが気に入らないのだろうか?自分の人生のほうを見直したほうがいいんじゃないのかな、それは。他人に何かを向ける、やたらと発散するためじゃなくて。

自分の人生のむしゃくしゃを他者に向けるのは勘弁してほしいと思う。そういう人間は大人になっても何歳になっても、いる。自分はそういう人間から離れることをある時から決めたし、そういう人と分かれば近づかないようにしている。最初は肯定し合う仲でいられても、何かの拍子にやがてこちらが傷つけられる対象になることは遠くないと思うから。その心の動きは他人のものであるし、自分からはどうにもできないと思っている、またはどうにかしようなどと思うものではないと考えてもいるからだ。他者というのは悲しいほどに残酷に自身とは距離のあるもので、それは物理的、心理的にも現実的にも「離れている」ものなのだと思っている。そのあらかじめある「距離」というものを忘れて、あたかも一心同体かのようにふるまえる仲になる瞬間というのはそれはそれで面白い現象でもあるけれど。要は心の持ちようなのかもしれない、それだけのことなのかも。

ついつい人を信用しきってしまう癖が昔からあって、後から人間の世界のいろいろを知るにつけ、「あのときのあれは騙されていたな」とかいろいろわかるようにはなったけれど、それで「わかる」ということは客観性が自分に加味されて悪いことではないけれど。自分はどちらかというとものごとを良い方向にとりたいと思うし、それは他者にむけても同じだ。その人の良い部分を見ようとするし、良いと思いたい。それでも、都合よく悪意ありの感じで付き合ってこようとする人間はいるのだと知った。

べつにそうだとしてもいい、自分がしっかりしていれば大丈夫かと思っていたが、時間が経ってみて気づいたことは、自分もやはり影響を受けてしまっていたということだった。自分が他者の良いと思わない部分に振り回されないようにしていても、付き合っているうちにその他者の悪い部分の影響が及んでくることはあるのだと知った。それからは自分は、悪意のある人や恒常的に他人を落とす癖のある人、その他難しい感じの人(大まかに書いてしまってるけどいろいろ。)など、そういう「ちょっと?」のつく人間とは付き合うのをやめようと決めた。

自分はそんなに強くない。それに、一緒にいてポジティブになれる人とより多くの時間を過ごせたらと思うようにもなったから。変な人と過ごす時間をそちらに傾けたい、大切な時間にしたい。

本当に悪い人間なんていないのだ、と、夢のようなことを本当に心のどこかで信じてきた自分だったけど(笑ってくれてもいいべつに)、悪意のある人間はいるのだなぁ、と思わせてくれた人、ありがとう、そしてさようなら。

自分はやはりそうでない世界に行きたいと思う。強く。少なくとも、ポジティブに前向きに自分自身は生きていきたいのです。そのために何ができるか、何をしていくべきかを考えていきたい。

うぉー、という感じ。
















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