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歌集
母が亡くなってから、もう、4年になろうとしている。4年にわたる、寝たきりの植物状態の末に、年末、紅白の終わりと共に、母は、旅立った。
母は、勉強がしたかったにも関わらず、両親の反対を受けて、大学へは進学できなかった。
恐らく、そのことをずっと、引きずって生きてきたのだと思う。兄や私に対して、勉強をサボることについての忠告の仕方は、非常に厳しいものがあった。
母方の祖母は、女学校を出ていて。書をたしなみ、俳句や短歌を、さらりと読む人だった。
その影響もあったのだろう。読書会や、短歌の会などに、母は、よく参加していた。
父も、そういう母の、文学への興味を、驚きの目を持ってとらえていたであろう記述が、この号ではないが、村誌の他の号で読んだ記憶がある。
父は、大学院に行きたかったが貧しくて行けなかったクチで。
本を読んでいるか、論文を書いている姿しか、思い出せないほどの勉学の虫だった。
その父が、母の意欲を認めるのだから、母は、相当な情熱と意思をもって、文学に向かい合っていたのだろう。
兄は、勉学は特に、優秀な人だった。性格的には潔癖なほうで、いい加減な私とは、良く意見が対立した。
だが、問題意識の塊で。よく、勉強していた。
私は、そんな家族に囲まれて。いつも、思っていた。
なんで、勉強なんて好きな人が、この世にいるのだろう。
家族4人で、3人が勉強好きって、どういう因果で、そんな家庭に生まれてきたんだろう。
それぞれ、私以外の家族は、共同執筆などを含めて、本を出している。
父と兄は、専門書なので、書店に並ぶような、一般的な売れる本ではない。
そして母は、倒れる前に、歌集を自費出版をするために、自分でいろいろと準備をしていた。もう、印刷にかかれるところまで辿り着きながら倒れ、意識が無くなり、話すことも出来ず、4年も生きながらえた末に、亡くなった。
葬儀の場で。兄が、私に、言った。
母の遺志を尊重して、その歌集を出版しようと思うが、同意するかと、問うてきた。
私には、異論をはさむ理由がなかった。
母の歌集を、めくっていったが、かなり難しく。私には、理解して読める短歌が、ほぼ、なかった。
だが、いくつか、紹介しよう。本当は縦書きなのだが、横書きにて書く。
了解と一言メールに送りくるまこと栓無し 息子といふは
ともすれば忘れがちなる直向きを映像は見す球児の熱闘
仰ぎみる空の高きに雲ひとつ憂きこと捨つるは今この時か
どうだろう。心に響くだろうか。
私は、詩や歌や句を詠むのは、苦手だ。だが、人の作品を干渉するのは、嫌いではない。だが、母の短歌は、手強く、一度や二度読んだところで、文字面の理解にすら及ばないことも多かった。
母の努力の積み重ねの価値すら、私には、分からないのである。
心の中の、リトルkojuroが、寂しそうに、つぶやいた。
もう少し、勉強しておくべきだったかな。
今となっては、後の祭りだ。
長男が生まれたとき。母が、お祝いだと言って、贈ってくれた歌がある。
その時は、何とも思わなかったが、読み返してみると、初孫への愛情を、感じずにはいられない。
もう、夜も更けたはずなのに、机の端に置いてある母の歌集が、白く、鈍く、光っているように見えた。
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