全力
最近、歳なのだろうか。妙に涙腺が緩くなってきた。ちょうど10年前になるのだが、その時に経験したことがある。私はこの出来事を人に話そうとするのだが、最後まで涙を流さずに話せたことはないし、そもそも途中で泣いてしまうために、終わりまで話せたことがない。いつも、周囲の人たちは何をこの人は泣いているのだろうという不思議な呆れ顔で私を見つめ、私はタオルに顔を埋めてしまうという変な構図でエンディングを迎える。
今日は、その話を書いてみようかと思う。またもや何の感動も共感もなく、この記事はひょっとしたら削除される運命にあるのかも知れない。それでも、それを承知で、また、私の稚拙な文章力や表現力も百も承知で、チャレンジしてみる。
それは、長女が中学1年生の時の体育祭のことだった。中学3年生は、最終学年だ。みんなが思い出づくりをしていくのであろう。各種目の3年生の熱の入れようは、他の学年とは違っていた。演目も最後となり、中学3年生のクラス対抗リレーになった。各クラス、既に第1走者が位置についている。そして、まもなく、号砲が鳴った。
白のクラスが、速かった。クラス対抗は男子も女子も混合で走る。文字通り、クラス全員による対抗リレーなのだ。白のクラスは、最初から飛ばしていたが、第2走者、第3走者、走るたびに他のクラスとの差が広がっていく。15名も走り終えた時には、他のクラスを圧倒し、最後尾をもう少しで周回遅れに。2位まで半周までに引き離し、ダントツだった。だがそこからは拮抗し、ジリジリと差を詰めて来られそうになる。それを各走者が必死にこらえて差を最終走者に渡そうとしているように見えた。普通、アンカーは、最も速い者が走る。勝負は決したと、私は、思った。
白の最終走者がタスキをかけて出てきた。が、彼は、身長も小さい。そして恐らく彼は、何らかの障害を抱えている。それが遠目にも分かった。体を動かせないわけではないのだろう。しかしちょっと違う感じで、運動神経もおぼつかないような、そんな雰囲気だった。一瞬私は、前走者がつけている差を目分量で測ったが、これは、走ってみないと分からないな、と、本能的に理解した。
圧倒的な差を保持した白の前走者がバトンゾーンに走り込んでくる。前走者は女生徒だったが、バトンを彼に渡しながら、ありったけの声を出して叫んだ。
全力で、走れ!!!
バトンゾーンは、私の観客席の真反対にありかなりの距離があった。それでも彼女の声は、響き渡ったのだ。
彼は、走り出した。いかにも速く走れなさそうなフォームだ。首を激しく左右に振り、でも少しでも早く足を前に出そうともがきながら、腕を激しく前後にふりながら、なりふり構わず走り出した。
私には、彼が、かなり練習したであろうことがわかった。そういう必死さと執念が、彼の走りから伝わってきた。勝つ、勝つために走っている。その熱量は尋常ではなかった。
見ると、生徒席で白のクラスの全員が立ち上がっている。声の限りの応援を、ある者は両手を突き上げ、ある者は口に手を当ててメガホンを作り、ある者は飛び跳ねて、みんながみんな声を嗄らして必死に送り続けている。
だが、無情にも、彼の劣勢は明らかだった。今までため込んできた差は見る見る縮まり、詰められ、とうとう半周過ぎたあたりで2位に抜かれる。そして3位に。次は4位に。
走れ!、走れ!!がんばれ!!! 貫け!!!走り抜けろ!!!!
気がついたら私の心の声は大声となって外に飛び出していた。私の腕も、グルグル回っていて、まるで走塁コーチのようだった。
ゴールは、目前だ。なのに、あと少しなのに、無情にも周回遅れ寸前まで引き離したはずの最後尾のクラスに、ゴールライン直前で抜かれてしまった。
勝負は、ついた。最下位だ。
白いクラスは、全員が席を飛び出して来て最終走者の彼を取り囲んでいた。全員が全員。クラスの全員が彼を囲んで泣いていた。泣き尽くしていた。それを見ていた近くの観客も、目頭を押さえていた。私も、とめどなく涙が流れてきた。それは、止まりそうになかった。
考えてもみてほしい。彼さえいなければ、白のクラスは恐らく余裕で優勝だっただろう。彼さえいなければ。
彼も、彼以外のクラスメイトも、どんなに悔しかったか知れない。どんな葛藤があったか知れない。ひょっとしたら争い事もあったかも知れない。諦めようと言う白けた雰囲気もあったのかも知れない。それをどう納得し、腑に落ち、立ち上がり、奮い立ち、そしてどんな作戦を練り、練習し、実行したのだろうか。まだ、中学三年生の彼らが。彼らには、最初から優勝なんて眼中になかった。あるいは最下位だけは、ひょっとしたら脱出できるかも知れないと思っていたのかも知れない。しかしきっと、彼らは全員全力で走り切ることしか、頭に無かったのである。全員で。全力で。必死で。大真面目に挑み、最後までチャレンジをし尽くした。負け戦に堂々と挑み、そして潔く散った。散るべくして、散ったのである。ただただ全員、全力を出し切って。
私は、泣いて立ち尽くしていたので、家内に、心配そうに声をかけられた。
どうしたの?らしくない。
ゴールラインの白い集団は、しばらくみんなで固まり、抱き合って泣き続けていた。そこに、放送の声がかかった。
ただいまから閉会式を行います。生徒の皆さんは、所定の位置に速やかに戻ってください。
その白い集団は、ゆっくり、ゆっくりと、閉会式の列に名残惜しそうに溶け込んでいった。
もしも事態が落ち着いて、居酒屋に活気が蘇り、むかしの日常が戻ってきたときに、どこかの居酒屋の隅っこで娘の体育祭のリレーの話をして泣きながら最後まで話せないでハンドタオルに顔を埋めている酔っ払いがいたら、それは間違いなく私だ。
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