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★「Call me back」松任谷由実with 荒井由実 について

最初この曲が発表された時、曲の作りが昔の感じだったので、 「へぇー、昔こんな良い曲があったのか、アルバム曲か、B面のマイナーなやつかな」と思い、詳しくWEB検索するも、全く出てこない。 それもそのはず。この曲、新曲。 そして実は40年前に「タイトルと曲だけ」出来ていて、それをユーミンが発掘して、松任谷正隆さんと相談の上、新しく歌詞を創ったというもの。 つまり、私が生まれた頃の曲! それが新曲として発表された。 しかもAI荒井由実との共演。PVのラストに、松任谷由実と荒井

    • 死屍累々の途

      以下、『歴史とは何か』 E.H.カー著(清水幾太郎訳 岩波新書 2015.9.4再版)P48〜49より。 「私たちはしばしば歴史のコースを『進行する行列』として論じます。まあ、この比喩は結構なものでしょう。但し、この比喩に誘惑されて、歴史家が、聳え立つ岩角から四方を見渡す鷲やバルコニーに立つ重要人物のつもりになるようなことがないとしての話であります。それはとんでもないことです。歴史家もまた同じ行列の別の部分に加わってトボトボと歩み続ける、もう一人の影の薄い人物にほかならない

      • ぴたん

        昨日緊張して眠れない時間に、 布団に入り、ぼーっとしていたら、 屋根をつたって落ちる、雨だれの ぴたん という音が、 質感を伴って鮮明に、耳に入って来た。 クオリア。 ちょうどその時。 明日、あなたにとって文学とは何ですか、と聞かれた時にどうしようと思い、返答を考えていて、ひらめいた。 文学は、雨だれに似ている。 物語の書きだしは、雨だれのまさに落ちんとする瞬間に似ている。 雨粒が雫を成し、自らの重さに耐えかねて、落ちる。 これは文学の動機に似ている。 プロセスは

        • 現実の輪郭

          以下、「巷説百物語」京極夏彦 角川文庫 解説:大塚英志(P.516)より紹介。 「柳田(國男)が記述しようとしたのは『遠野物語』で語られた神秘的な出来事が『事実』である、という主張ではなく、そのような物語が現に人々によって語られているという『事実』なのである。  明治四〇年前後、怪談の時代はそのようにして『事実』あるいは『現実』の領域が確定していく時代であった。僕の民俗学上の師の一人である宮田登は、いわゆる『世間話』の中には近代化の軋轢の中で生じたものが多数ある、と指摘し

        ★「Call me back」松任谷由実with 荒井由実 について

          知性とは、試されることである。

          知性とは、試されることである。 人生における一つの答えとして、私はこの言葉を用意した。 「最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ。無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん。」 引用した古文は、道元禅師の『正法眼蔵』の要点をまとめた「修証義」からである。 今昔を一貫して、人間の命は一度きりであり、その上、いつ何が起こるか、何に出会うか分からないような不確実性・多様性・雑菌性の中を、日々生きている。 感情はどうあれ、生まれたら、死ぬまで生きているこ

          知性とは、試されることである。

          イアンもカートも

          米津玄師の「LOSER」の歌詞に、「イアンもカートも昔の人よ」と出てきますが、カートは分かるとしてイアンって、イアンブラウン?まさかイアンギラン?・・・と、疑問に思っていたのですが、検索したら、なんと、イアンカーティス(Joy Division)だそうで。凄いチョイスだな・・。 こういう感性の人が日本の音楽シーンをけん引していると思うと、おじさん的には心強い。ただ、LOSERが出た頃、カートが過去のものになっちゃって、引導を渡された感がありました。 Dead Soulsは

          イアンもカートも

          「人」になるということ

          「人間の欲望は変わらない。これからも自己利益・営利追求の欲求はいっそう激しく展開してゆくだろう。歴史は人間のこざかしい『認識』などで律しうるものではない。それにもかかわらず変わることなく歴史に残るのは、『人』としての誠実さを尽くして生きかつ死んだ『人』の記憶と、それを追慕する中に蘇る人間像のみである。なんらかの形で、この追想を生かすのは今後に残されたわれわれの課題となる。」  /『秋の思想』河原宏 著 (幻戯書房 2012年)P.10 「二十一世紀の課題は、現代文明の『物

          「人」になるということ

          思考の整理(1)

           春秋が四十巡るを得て、ようやく小学校の頃から歴史に憧れをもっていた理由が、分かって来ました。「ハイカルチャーへの憧れ」これに尽きるかもしれない。  古文書が読みたい!と思った動機は、たしか諸葛孔明の「出師表」を読み下し、理解したいと思った事だと思います。理解しなくても、読み下しの日本語の響きが、カッコ良い。 「しんりょうもうす、せんていそうぎょういまだなかばならずして、ちゅうどうにほうそせり。いまてんかさんぶんすれども、」  ナショナリズムではないんですよね、そうじゃな

          思考の整理(1)